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2011年11〜12月現在のアセンションの状況について Part 4

3、2012年以降も、現在と同じようにアセンションが進行していった場合には、現在以上に、より多くの人々が、人類は一つ、とか、すべての生命は一つ、というような一つに統合された一体感の感覚や、ごくごく自然に、お互いの気持ちが分かり合えるようになるような、より良い意味での変化が続いてゆくことになるだろう

 第三には、これは、ちょっと話が変わるのですが、来年になると、おそらく、これだけは、明らかに変わるだろう、と思われる内容があるので、それについて、ここでは、お話ししておきます。

 まず第一には、これは、現在も進行していることなのですが、地球人類全体、というか、地球生物全体での一体感、というか、一つに統合され、結ばれている、というような、一体感の感覚が、さらに、どんどん強くなってゆくのではないか、ということです(これは、地球だけでなく、宇宙との一体感というものも含まれます)。

 第二には、これも、現在も変わり続けていることだと思われる内容になるのですが、だんだん、自分の国と別の国、とか、自分の会社と、よその会社、とか、セレブと普通の人、とか、子供と大人、とか、男と女、というような、差別の感覚、というか、分離の意識というのが、どんどん薄くなってゆき、気がつくと、「隣の国の人のことも、まるで自分の国の人と同じように考えられるようになっている」、とか、「隣の会社の人のことも、自分の会社の人と、同じように考えられるようになっている」、とか、「お金持ちと、普通の人の違いというものを、あまり強く意識しないようになっている」、とか、「子供と大人や、男と女の境界というものを、あまり強く意識しないようになっている」、などというように、だんだん、人間同士の心の壁、というか、違いの認識というのが、現在以上に、どんどん薄くなってゆくようになるのではないか、ということです。

 第三には、これは、まだ、あまり大きな変化はないのですが、だんだん、多くの人々が、何となく、無意識のうちに、相手の気持ちが、自然と分かるようになってゆく、とか、自分の気持ちが、自然と相手に伝わってゆくような、言ってみれば、これまで霊界でしか出来ないと言われていたような、以心伝心、というか、一種のテレパシーのような意思伝達が、これまで以上に、どんどん増えてゆくようになってゆくのではないか、ということです。

 

 2011年、11〜12月現在のアセンションの状況としては、大体、以上のことをあげたいと思います。

 

 それでは、みなさん、良いお年を!

 

 Cecye

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月31日 9:03 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 現在のアセンションの状況

2011年11〜12月現在のアセンションの状況について Part 3

2、現在、予定されている外宇宙の存在達のコンタクトに関しては、まだ、現在の地球では、闇の勢力のマインド・コントロールが、かなり強くかかっているために、この宇宙の創造主の意思によって、現在の地球における状況の変化の推移を、静かに見守られているような状況になっている

 第二には、これは、かなり言いづらいことなのですが、現在の地球は、良い意味でも、また、悪い意味でも、良い方に転んでも、また、悪い方に転んでも、どっちに転んでも、おかしくない、というような、ちょっと非常に不安定としか言いようがないような、霊的宇宙的な状況に置かれている、ということです。

 これは、政治や経済に関しても、また、人為的な作為の効かない、気象の変化や天変地異のようなものに関しても、さらには、前に述べたような、外宇宙の存在達のコンタクトのようなものに関しても、ほぼ同じようなことが言えるのではないか、と思われます。

 今年の中頃から、外宇宙の存在達のコンタクトの始まる可能性がある、と述べているので、そろそろ、そのことが気になっている方もいるかもしれないので、これについて、少し補足したいと思うのですが、現在の時点における地球文明と、彼らとの関係について、大まかに説明すると、大体、以下のような二つの内容が言えます。

 まず第一には、2011年末から、2012年初頭の現在の地球の状況から考えると、まだ、地球全体に、闇の勢力のマインド・コントロールが、かなりきつくかかっているために、この状況での地球人類と、彼らとの直接の接触は、あまり好ましくない、という、この宇宙の創造主の直接の判断がある、ということです。

 もう少し詳しく述べると、現在の地球は、まだ、闇の勢力のマインド・コントロールが、非常に強くかかっているために、地球人類の発する、非常にネガティブ、かつ、制限された、強い固定概念、というか、強い信念のエネルギーによって、地球の周辺には、霊的宇宙的に見ると、一種独特の硬い殻のような磁場が成立してしまっているために、この状況での彼らとの接触は、まだ、あまり良い結果をもたらさないのではないか、というような、この宇宙の創造主の判断がある、ということです。

 ですから、さらにアセンションが進行して、こうした地球人類のネガティブな精神エネルギーが、もっと解けて、そして、地球周辺の、他の宇宙存在達を、猛烈に、はじき出そうとするような霊的な磁場が、もう少し解けた段階になれば、そうした外宇宙の存在達とのコンタクトは、いつでも開始できるような状況になっている、ということです。

 第二には、これは、かなり問題が多い内容になるのですが、現在の地球は、アセンションの途中経過の時期に置かれているために、まだ、そうした多くの外宇宙の存在達のコンタクトを受け入れるには、地球人類にとってというよりも、彼らにとって、多少、危険な要素がある、ということです(ここで言う「危険」というのは、このブログで、いろいろ述べてきたように、霊的宇宙的に見た場合には、現在の地球人は、ほぼ日常的に体験し続けているものになるのですが・・・)

 ですから、これは、霊的宇宙的には、はっきりしていることなのですが、地球人全体の利益として、また、宇宙全体の利益として、現在の地球におけるアセンションの進行と、地球人類と宇宙人とのコンタクトを比べた場合、いったい、どちらを優先して、望むべきなのか、というと、これは、残念ながら、現在の地球におけるアセンションの進行の方が、遥かに優先されることになるので、今も、彼らの存在のアピールや、隠れた形でのさまざまな地球人類への支援というのは、継続的に行われ続けているのですが、ただ、完全に表立った形での、宇宙人とのコンタクトというよりかは、現在の時点では、この地球でのアセンションの進行の方が、もっともっと最優先の状況になっているようなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月31日 9:01 PM, 宇宙文明、古代文明 / 時間と空間の秘密 / 現在のアセンションの状況

2011年11〜12月現在のアセンションの状況について Part 2

②時間的世界の終着点に当たる、現代の辺りの時代では、多くの人々が、普通の人生を送りながら、この地球のみならず、他の外宇宙の世界を含む、さまざまな過去の時代や未来の時代に、かなりたくさんの並行生の体験をしていることが多いために、一種独特の不思議な感覚を持つようになってきている

 第二には、これも、前から、何度か述べてきているのですが、要するに、現在の辺りの時代というのは、多くの人々が、この地球における時間的世界の終焉を前にして、この地球のみならず、さまざまな外宇宙の世界も含む、過去のさまざまな時代や、未来のさまざまな時代(現在の延長線上の物質世界での未来のことですが)に、この地上の世界で、普通の人生を送ったまま、かなりたくさんの並行生のような人生体験を送っていることが多いために、例えば、「ほんの一日、二日のはずなのに、何だか、ものすごい長い時間が流れた気がする・・・」、とか、「昔は、全然、興味のなかった場所を、いつの間にか、ものすごく親近感を感じるようになった」、とか、「何だか、今まで、ものすごく大好きだったものに、最近、全然、愛着が湧かなくなってしまった」、とか、あるいは、「今まで、全然、興味のなかったものが、いつの間にか、ものすごく大好きになってしまった」、などというような精神的な変化を体験している人が、現在の地球には、本当に数多くいるのではないか、ということです。

 

③現在の地球では、物質世界と、四次元以降の世界との間の境界が、だんだん薄くなってゆく最中の状況に置かれているために、さまざまな不思議な現象が、次々と起こるような状況になってきている

 第三には、これも、かなり変わった話なのですが、実は、現在の地球の物質世界の空間というのは、少し前だと、かなり次元的に大きな壁が感じられた、四次元以降の世界との間の境界、というか、次元的な差というものが、どんどん薄くなってゆく最中の状況に置かれているために、現在の地球上の社会では、おそらく、次のような出来事が、かなり頻繁に巻き起こるような状況になっているのではないか、ということです。

 まず第一には、これは、多分、数十年ぐらい前から、始まっていることなのではないか、と思われる内容になるのですが、子供なのに、まるで大人みたいな知識や才能を示す子供が、どんどん数多く現れるようになってきていたり、あるいは、その反対に、大人なのに、まるで子供のように、天真爛漫に振る舞う人々が出てきたりする、ということなのですが、この理由は、簡単で、要するに、霊的に見ると、子供と大人の差と言っても、「つい、この前、おじいさん、おばあさんだったような人が亡くなって、再び、赤ちゃんで生まれ変わってきた」、とか、「大人であっても、霊的に見ると、その人の霊的な姿は、全く子供のままになっている」、というようなことが、特に物質的な束縛の薄くなってきた現代の時代には、非常に、よく起きるようになってきているからなのです(これは、男女の違いについても、ほとんど同じようなことが言えるようです)。

 第二には、これも、現在、だんだん、非常に多くなってきているようなのですが、要するに、「自分としては、物理的には、何もしていないはずなのに、ほんの少しの間、あれこれ何らかのことを考えている間に、何だかよく分からないが、ものすごい時間が流れた気がする」、とか、「ちょっとボーッとしている間に、何か自分の目の前に、半透明の想像や妄想のような世界が、サーと見えた気がする」、とか、「前は、全く見ず知らずだった人なのに、気がつくと、その人に対して、ものすごい親近感や、あるいは、その反対に、嫌悪感を感じるようになってしまった」、というような体験をする方が、どんどん増えているのではないか、と思われるのですが、それは、この物質世界の密度が、最近は、かなり薄くなってきているために、多くの人々が、この物質世界における自分や周りの状況は、ほぼ完全に維持したまま、自分の意識だけ、ものすごい短時間の間に、サッと、半分、霊界のような四次元世界の間で、いろいろな体験をしてきた結果、起きている現象なのではないか、ということです。

 第三には、これは、まだあまり指摘されていない内容になるのですが、もう現在の時点で、時空間の一部に、言ってみれば、一種の亀裂のようなものが生じて、少し前には、確かにあったはずのものが、なぜか、いつの間にか、何の痕跡も残さずに、なくなってしまった、とか、少し前までは、誰も知らなかったようなものが、なぜか、いつの間にか、誰でも分かるような形で存在するようになった、というような出来事が、現在の世界では、少しずつですが、だんだん巻き起こるようになってきているのではないか、ということです。

 これは、多くの人々の物質世界に対する信念の影響というものが、非常に大きく働くために、おそらく、多くの人々が、いつも目にするような場所ではなくて、普段、あまり目にすることのないような場所において、いつの間にか、人知れず、起きているような状況が多いのではないか、と私は思うのですが(つまり、多くの人々が、「これは、こうなっている」と、常に、はっきり確認しているようなところでは、今の段階では、なかなか起きづらい、ということです)、とにもかくにも、現在の地球というのは、一昔前の地球のように、非常に硬い物質世界になっている、というのではなくて、そうではなく、これまでの通り、非常に硬い物質世界の性質も持っているが、それと同時に、半分、霊界のような性質、つまり、多くの人々が、強く思ったり、願ったりしたことは、わりとそのままストレートに実現してゆきやすいような、半霊界的世界に、少しずつ変化してゆきつつある、ということなのです。

 このように、現在、アセンションの進行によって、私達の世界では、これまで数十年の間、全く当然だと思っていた時間の感覚が、少しずつですが、確かに、かなり大きく変わってゆきつつあるような状況に置かれているのではないか、ということです。

※多分、霊的に敏感な方は、こうした説明は、すぐに納得できると思うのですが、物質的な信念の強い人であればあるほど、こうした説明は、あまり理解しづらいのではないか、と思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月30日 9:12 PM, 時間と空間の秘密 / 現在のアセンションの状況

2011年11〜12月現在のアセンションの状況について Part 1

 二ヶ月に一度ずつ、現在のアセンションの状況について、いろいろな観点から述べてきたので、今回は、少し、それらのまとめについて、述べてみたいと思います。

 

1、時間的世界の終点に近い、現在の辺りの時代では、多くの人々が、少し前までは、かなり明確に、「同じ早さ」や「同じ間隔」に感じられたはずの時間の感覚に関して、ある時は、ものすごく長く感じたり、また、ある時は、ものすごく短く感じたりするような、一種独特の不思議な体験をするようになってきている

 まず第一には、今年の前半は、大変な地震や津波等の天変地異もあって、日本は、戦後始まって以来の大変な受難の年になってしまったにも関わらず、今年の後半にかけては、日本を初めとする、世界中の霊的な変化が、実際、かなり、めまぐるしかったために、確かに、いろいろ大変だったし、いろいろ忙しかったことは事実なのですが、一昔前と違って、何だか、時間の感覚が、よく分からなくなってきた、という人が、非常に多い年になったのではないか、というように、私は、率直に感じております。

 それというのも、これは、多分、現在も、そうなのではないか、と思われる内容になるのですが、多くの人々の感覚としては、一応、カレンダーもあるし、昨日の記憶もあれば、明日の予定もあるので、これまでとほとんど同じように時間が流れていることは、確かに事実であるはずなのですが、ただ、数年前の感覚とは、まるっきり違って、「ある時は、同じ時間の間隔のはずなのに、ものすごく長く感じられたり、あるいは、ものすごく短く感じられるような、不思議な体験をした」、とか、「一ヶ月前のことを思い出そうとしても、パッと考えただけでは、すぐに思い出せなくなってしまった」、とか、「もう数ヶ月前の出来事になると、何だか、ものすごい大昔みたいな気がしてくる」、というような妙な感覚を持つ方が、現在、ものすごく多くなってきているのではないか、と思われるからなのです。

 それでは、なぜ、特に、ここ数ヶ月ぐらいの間に、私達の時間感覚が、大きく変化するようになってしまったのか、というと、これは、これまで、いろいろな機会に、何度も述べてきたことなのですが、その理由を、大まかに述べると、大体、次のような三つの理由になります。

 

①今年の8月頃の段階で、過去から未来に、一直線につながるような形で流れていた時空連続体が、いったん崩壊してしまったために、現在の地球周辺の時空間は、もう昔ほど、物質的であるとは言えず、また、ガッチリとした連続した時間が流れているとも言えないような、半霊界的世界に移行してゆきつつある、まさにその最中の過程に置かれている

 まず第一には、これは、霊的宇宙的には、かなりはっきりしていることなのですが、少し前までの地球は、過去から未来に向かって、まっすぐに流れてゆく、時空連続体の中の一点に、ある程度、しっかりと固定された形で、多くの人々が、時間の体験をしているような状況になっていたのですが、それが、今年の8月頃の段階で、こうした時空連続体が崩壊して、時間や空間の存在が、物理的に、かなり不確かなものに大変化してしまったからです。

 その結果、現在の地球を含む、地球周辺の宇宙の時空間の状況は、いったい、どのようなものになっているのか、というと、これを言うと、驚かれる方が多いのではないか、と私は思うのですが、実は、これまで、何十年、何百年と、多くの人々が、この物理的な世界で体験した、その体験による、強い信念によって、そうした、これまでと全く同じような形の物理的な世界が、あたかも同じように存在し続けているかのように信じ込んでいる(一種の仮想現実のような世界に変化してきている、ということです)、という理由が半分と、それから、もう半分の理由は、この宇宙の創造主の意思によって、あまり突然に、現在の地球や宇宙の状況が、大混乱したりしないように、ある程度、前と同じような状況になるように、意図的に維持されている、というような理由によって、言ってみれば、アセンションの進行に伴う、一種の過渡的な形態としての時空間が維持されているような状況になっている、ということなのです。

 ですから、これは、霊的なことが、ある程度、お分かりの方なら、多分、すぐに分かるようなことなのではないか、と思うのですが、アセンションの進行に伴い、特に今年は、もう昔ほど、「物質」、「物質」、というほどの、あまり濃い密度の物質的な感覚は、だんだん少なくなってきているのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月29日 9:07 PM, おすすめ記事 / 時間と空間の秘密 / 現在のアセンションの状況

イエスについて Part 6

②とかく、ユダのような背信者の話があると、宗教運営というのは、ものすごく簡単になるものなのだが、ただ、それは、信仰的な利益誘導と、恐怖心の束縛との間に生じた、一種の錯覚的な心の平安や幸福であることも多いので、もうそろそろ、多くのキリスト教徒も、キリスト教信仰の効用と限界について、もう少し客観的に理解すべき時期に入り始めているのかもしれない

 第二には、これは、その後のキリスト教を信仰している、多くの信者の心理を見れば、ほぼ明らかなのではないか、と思われる内容になるのですが、とにもかくにも、キリスト教のイエスの物語を読むと、ものすごく偉大な、まるで、本物の神のような聖者と、彼を慕う、心弱く、罪深い弟子達と、特に、その中でも、信仰に破れ、師を試し、最低の裏切り者となったユダの話が、多くの人々の心に刻まれてゆくことになるのです。

 その結果、キリスト教の多くの信者達は、いったい、どのような精神状態になるのか、というと、「自分は、どんなに大変な状況でも、神を信じ、イエスを信じる」、というところまでは、分かるにしても、そのおまけとして、「自分は、そう簡単に、何でも疑い、試(ため)そうとするような、ユダのような人間には、絶対になるまい」、と、常に信じることの大切さと、疑うこと、というよりも、自由に考えることの危険性や怖さというものを、何度も何度も、そうした話を聞くうちに、すっかり心の底まで刷り込まれてゆくようなところがあるのです。

 その結果、信じることの素晴らしさの影で、疑うことや、自由に考えることの絶対的な放棄を強いられることになった、その後の多くのキリスト教徒達は、古代から中世の間、ルネッサンスや宗教改革の時代に至るまで、千年一日のごとく、まるで同じ動作を繰り返す機械やロボットのように、永遠に終わることのない、ひたすら同じことのみが繰り返し続いてゆくような、悠久の時間の中で、ずっと同じような生活を、何十世代も、何百世代も繰り返し続けるようになっていってしまった、ということなのです。

 そうすると、これは、熱心なキリスト教徒の方には、ちょっときつい指摘なのは、よく分かるのですが、ここでは、あえて、言わせていただきますが、もし、イエスの教えに、ユダの話がなかったら、キリスト教徒の人は、近現代以前の、もっともっと昔の時代から、ずっと伸び伸びと、自由に、いろいろなことが楽しめるような、幸福な生活ができたのではなかったのか、ということと、もし、そのような形で、ユダの話がなかった場合には、もっと、ずっと早く、教会の権威というものは、あっさりと失墜して、もっと緩やかで、フレンドリーな、人間的な信仰生活ができるようになっていたのではなかったのか、ということなのです。

 そうすると、ここでは、非常に意外な結論が出てくるのですが、結局、ユダの話がついていると、いったい、誰が、一番、得するのか、というと、これは、キリスト教会の一人一人の信者の側ではなくて、そうした一人一人の信者を管理している教会の側になってくる、ということ、つまり、そうした信者の人々が、何かするたびに、「あなたは、とんでもない不信心者だ」、とか、「みんな、キリスト教徒の仲間を裏切ろうとしている、とんでもない人間がいるぞ」、などという具合に、わりと簡単に、教会の分裂や信者の離反を防ぐことができた、教会の側になってくるのではないか、ということなのです。

 これ以上の結論は、あえて避けますが、要するに、ユダのような話があると、宗教団体の運営というのは、非常に易しくなる、ということと、それと、そうした宗教団体の側としては、多くの人々の集団心理を、常に、その宗教の定める一定の範囲内のイメージや考え方の方向に、宗教的な利益誘導と、恐怖心の束縛によって、わりと簡単に制限し続けることができる、という点において、非常に便利なものであった、ということなのです。

 ですから、古代から中世、そして、近現代に至るまで、そうしたキリスト教のような信仰がもたらす、精神的な安らぎや幸福というものを、多くの人々が、心の底から求め続けていた、ということまでは、私も素直に認めるのですが、ただ、もし、それが、ねつ造された、一種の作り話と恐怖心の檻の中での、精神的な錯覚のようなものであったとするなら、私は、そうした錯覚の安らぎや幸福の世界からは出て、そうした錯覚ではない、真実の安らぎや幸福の世界の探求というものを、多くのキリスト教徒も、もうそろそろ始めてもよい時節が来ているのではないか、というように、率直に感じる今日この頃なのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 イエスの話の続きは、少し置いて、また来年になります。

 この話って、推理小説みたいで、面白い〜、という声が多いようなので、今後は、推理小説仕立ての文章に変更することも、検討中です?

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月28日 9:24 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観

イエスについて Part 5

キリスト教の「ユダ」にまつわる話には、根本的なところで、かなり大きな疑問がある

 私は、こうした客観的な状況から推測するに、おそらく、こうであったのではないか、というような結論を述べると、大体、以下のような二つの内容になります。

 

①イエスの人生を襲った悲劇的な最期そのものに関しては、おそらく、本当だと思われるが、ただ、それに関わるユダの存在と、その行動に関しては、かなり疑念の余地がある

 まず第一には、約二千年前の中東に、現代では、「イエス」という名前で知られている、かなり傑出した霊的な覚者のような人物がいたのは、おそらく、歴史的な事実として、認めてもよいのだろうと思われるのですが、ただ、人類の歴史を見る限り、そうした霊的に傑出したマスターのような人物が、それほど遠くもない将来、自分を、致命的な形で、直接、裏切ることになるような人間を、わざわざ、自分の高弟として受け入れたとは、ちょっと普通、常識的にあり得ないと思われるので、こうしたケースの場合、最初から、イエスは、将来、ユダが裏切ると知っていて、彼の高弟として、受け入れたと考えるよりかは、より常識的に考えた場合、「ユダ」と呼ばれる人物は、そもそも、最初から、いなかったか、もしくは、本当は、全然、別の話だったものがすり替えられて、その後、あたかも彼が、最低の裏切り者のように喧伝されるようになった、と考えるのが、すじみちには、合理的なのではないか、ということです。

 つまり、当時のイエスと呼ばれる人物が、かなり不当な裁判で有罪にされて、磔刑(たっけい)となった後に、復活して、昇天した、というところまでは、霊的宇宙的に見た場合、私は、あり得ると思われるので、それに関しては、ある程度、分かるのですが、ここで、どうしても納得が行かないのは、イエスが、まるで本物の神のような奇蹟を演じるために、なぜ、ユダの裏切りが必要であったのか、ということなのです。

 ここで考えられる私の結論は、単純で、イエスという人物が、真の霊的な覚者であるならば、そう簡単に、多少の金銭で裏切るような人物を、自分の高弟に登用するようなことは、絶対になかったはずなので、単純に推測する限り、おそらく、イエスと呼ばれる人物は、当時の為政者の都合で、突然、かなり不当な理由で拘束され、めちゃくちゃな裁判の末に処刑された、ということと、それから、その後、再び、復活し、昇天した、というところまでは、ある程度、歴史的な事実として、受け入れても良いのかもしれないのですが、ただ、その直接の原因を呼び込んだとされるユダの話に関しては、おそらく、 そうしたイエスを裏切ったユダと呼ばれる人物は、そもそも全くいなかったか、あるいは、その後の経緯で、いつの間にか、全然、別の話にすり替えられて、とんでもない汚名を着せられるようになったか、のいずれかだったのではないか、というのが、私の結論になります。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 この話は、続きが気になる人が多いようなので、もう少し後に続きをアップします。

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月28日 9:13 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観

イエスについて Part 4

2、キリスト教の「ユダ」にまつわる話には、根本的なところで、かなり大きな疑問がある

 第二には、これは、今日でも、かなり誤解が多い内容になっているのではないか、と思われる内容になるのですが、キリスト教の「イエス」と言えば、裏切り者の「ユダ」(正確には、「イスカリオテのユダ」のことですが、最近の流行歌では、何だか、人気者らしいですね・・・)、という具合に、今日でも、非常に悪名高い「ユダ」という弟子がいたことになっているのですが、このユダの話も、実際の話とは、かなり違っていたのではないか、ということです。

 このユダの話に関しては、今日でも、キリスト教の外伝や他の宗派や、あるいは、イスラム教などで、いろいろな別の話が伝わっているので、正直言って、外部の人から見ると、何が何だか、よく分からないようなところがあるのですが、簡単に要約すると、大体、以下のようなことが言えます。

 

イエスが、かなりの霊的な覚者であったにも関わらず、ユダを、彼の最重要の側近に採用したとする場合には、どうしても理解しがたい二つの疑問が出てくる

 まず第一には、これは、霊的には、はっきりしていることなのですが、もし、イエスという人物が、かなりの霊的な覚者であるにも関わらず、彼の側近のような最重要のポジションに、近い将来、裏切ることになるような人物を取り立てたのであるならば、こうしたケースの場合、もし、その後、ユダが裏切って、イエスが、無実の罪で引っ立てられたり、裁かれたりしたとしても、この場合の霊的な罪は、ほぼ間違いなく、ユダの側にあるのではなくて、イエスの側にあることになる、ということです。

 それゆえ、そうしたキリスト教の外伝のような話には、「ユダの裏切りは、あらかじめイエスが望んだことであった」、というような記述が見られることが、非常に多いのですが、それは、当時においても、また、現代においても、そうした、「そこそこ霊的に優れた覚者のような人物であるならば、いくら何でも、近い将来、自分を裏切るような人物を、十二弟子の一人というような、最重要のポジションに取り立てるはずないではないか?」、というような、多くの人々の素朴な感想、というか、素朴な疑問が、その背景にあるからなのです。

 第二には、これは、少し言いづらいのですが、それでは、聖書の通り、当時のイエスが、ものすごい霊的な覚者であったにも関わらず、近い将来のユダの裏切りが、全く予見できずに、その後の突然の不意打ちのような出来事によって、そうした不当な拘束や裁判の犠牲になったとするならば、この場合、霊的に見た因果関係としては、当時においても、また、今日においても、多くの人々の普通の物の見方としては、どうしても腑に落ちない異常な部分が、幾つかあることになります。

 まず一つめは、ユダが、イエスを疑ったり、不審な行動をし始めているのであれば、その時点で、イエスが、普通に親しく、丁寧に、彼に話しかけて、そうした不信や間違いを解いてやれば、良かったのではないか、ということです。

 それから、二つめは、これは、単純な話になるのですが、もし、聖書の話の通り、突然のユダの裏切りによって、イエスが、不当な裁判で処刑されてしまった場合には、確かに、死後、イエスが、再び復活して、生前の彼の話や、死後の世界の証明をすれば、その後のイエスは、一種の「神」、もしくは、「神の一人子」のような、霊的に最高のポジションにつくことになるのでしょうが、その場合には、キリスト教が続く限り、「ユダ」と聞けば、「もう最低の裏切り者!、悪魔!」、などというように、はっきり言って、その後のユダは、地上にいても、霊界にいても、どこに行っても、最低のウジ虫呼ばわりされるような存在になるに決まっている、ということなのです。

 そうすると、この場合、もし、イエスと呼ばれる人物が、本当に「神」のような慈悲深い存在であったとするならば、なぜ、自分が、「神」や「神の一人子」のような、霊的に最高の存在になるために、その代償として、もう一人、最低の悪魔呼ばわりされるような人物を作らなくてはならなかったのか、というのが、普通、ちょっと考えてみると、全く納得が行かない、というか、はっきり言うと、聖書に記述された、当時のイエスの超能力から推定する限り、これでは、ユダが悪いというよりも、本当は、そんなユダ役を生み出したイエスという人物の方が、一枚も二枚も上手の、本当の策士、というか、正真正銘の本当の詐欺師のような人物になってしまうのではないか、ということなのです。

 

イエスとユダにまつわる、二つの仮説について

 そうすると、ここで推測すると、二つの仮説が成り立つことになります。

 まず第一には、本当は、イエスという人物は、それほど、ものすごい霊能力を持った覚者のような人物ではなくて、裏に何かあって、いろいろなマジックのようなものを操って、まるで神のように見せかけただけではなかったのか(これは、歴史的には、ずっと疑われ続けていますが・・・)、という仮説になります。

 ただ、これは、キリスト教のその後の発展の経緯を見る限り、昨今の新興宗教の盛衰の状況を見ても、これほど大きく大発展した宗教は、全くないので、私は、やはり、当時の「イエス」と呼ばれた人物には、普通の人とは、全く違った、ものすごい何かがあったのではないか、というように、単純に理解したいと思うので、おそらく、これは、間違いなのではないか、ということにしておきたいと思います。

 第二には、これは、ちょっと変わった話になるのですが、要約すると、イエスの話自体の、大まかな彼の人物像や能力や逸話は、ある程度、本当だけれども、それ以外のユダの裏切りや、その後の不当な拘束や裁判や、さらには、その後の復活と昇天の部分に関しては、何らかの理由で、横やりが入って、彼の生前か、あるいは、死後の段階において、かなり強引に、ある一定のシナリオにおさまるように、何物かが、当時のパレスチナの政府に秘密裏に介入するか、あるいは、その後のキリスト教会に、不当に介入するなどして、単なる中東の一予言者、もしくは、霊的なマスターのような立場から、無理やり、ユダヤのメシアや、世界のキリスト(救世主)のような人物になるように、話をすり替えたのではないか、というような仮説になります。

 ここでは、これ以上は、あまり深入りしたいとは思わないのですが、要するに、私が言いたいのは、確かに、古代の中東を初めとするような、中央アジアやヨーロッパやアフリカなどにおいて、多くの人々から、現在のキリスト教として知られているような、単純に信じることによって、救いや平安が得られるような宗教が必要とされた、というような歴史的な事実までは、私も認めるのですが、ただ当時の人々の感覚としても、また、現代の人々の感覚としても、よく考えてみると、どうしても、そう簡単には、理解しがたい、キリスト教発祥にまつわる非常に深い謎、というか、どうしても、そう簡単には、納得しえないような深い矛盾や疑惑のようなものがある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 要するに、昨今のたくさんの映画を見たり、たくさんの小説を読んだりした経験のある方なら、これは、わりと単純に理解できるのではないか、と思うのですが、正直言って、昔の人なら、ともかくとして、そうした、たくさんのエンターテイメントに接したことのある現代人の目から見ると、聖書で述べられているイエスの話に関しては、特に、途中からのユダの裏切りのエピソードの部分が、なんか、ちょっと不自然なのではないか、というか、ちょっと、まるで、後から、誰かが、そういうシナリオになるように、人工的に作った作り話のように感じられるところがある、ということが、ここで伝えたい趣旨になります。

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月27日 9:13 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観

イエスについて Part 3

3、聖書のイエスの物語には、どうしても納得しがたい、幾つかの疑問や間違いがある

 第三には、これも、ちょっと言いづらい話なのですが、昔からのキリスト教の伝説や、最近のスピリチュアリズムやニューエイジの書物などでも、時々、述べられている通り、実は、実際の「イエス」と呼ばれる人物の足跡と、その後のキリスト教で祭り上げられていった、「イエス・キリスト」の話が、結構、大事な所で、大きく食い違っているところがある、ということです。

 ここでは、その中でも、特に重要なところについて、二点だけ触れたいと思います。

 

1、当時のイエスは、普通に結婚し、子供ももうけていたので、結婚やセックスに対して、それほど否定的な考えは、全く持っていなかったと思われるが、彼の死後のその後の経緯で、イエスの教えや奇蹟を重んじて、教勢を伸ばそうとした教会派と、結婚やセックスの秘儀を重んじる霊的秘儀派の二つの派が、連綿と伝わってゆくようになっていった

 まず第一には、これは、よく言われていることなのですが、今日的な視点から見ても、イエスと呼ばれる人物が、当時の時代としては、かなり危険な言動を行っていたことは、確かに事実であるのですが、ただ、彼は、当時のユダヤ教の伝統に則って、普通に結婚し、また、子供も、もうけていた、ということです。

 これは、今日でも、キリスト教の外伝や秘密の伝統として、しっかり伝わってきているようなのですが、実は、当時のイエスと呼ばれる人物は、特段、性的に潔癖というほどの感覚は、全く持っていなくて、そうではなく、当時の社会の常識に則って,普通に結婚もすれば、また、普通に子供も、もうけて、育てていた、ということなのです。

 それでは、その後、いったい、どのような経緯で、そうしたイエスの生涯の話が、実際の話とは違ったものにすり替えられていったのか、というと、これを言うと、驚かれる方も多いのではないか、と思うのですが、当時のイエスの教えには、大きく二つの派があって、一派は、どちらかと言うと、霊的に見た結婚の秘儀やセックスの重要性を、非常に重要と捉えていたのですが、もう一派は、そうした、わりと地味で、すぐに誤解されやすい結婚やセックスの秘儀には、非常に批判的で、どちらかと言うと、イエスの教えや、彼の行う奇蹟の方に、霊的な価値を見いだしていた、ということなのです。

 その後、当時の為政者による、かなり不当なでっち上げの裁判が行われて、イエスという人物が処刑されてしまうと、すぐに、当時のイエスの信派の人達は、分裂状態になってしまい、一方は、普通の人間としての生活を重んじながら、わりと自然な形で、結婚やセックスを重視するような一派となり、また、もう一方は、それよりかは、イエスの教えや奇蹟の方を重視して、もっと急進的な形で、イエスの教えを広めてゆこうとするような一派になっていった、というような、今日には、ほとんど伝わっていないキリスト教の秘史のようなものがあったのです。

 それでは、その後のキリスト教は、いったい、どのような歴史を経るようになっていったのか、というと、これは、今日の目から見ると、かなり不思議な話であるのですが、今日では、「マグダラのマリア」(当時の普通の女性で、特に、ものすごい悪霊憑(つ)きだった、とか、娼婦だった、という事実はないようです)として知られている、当時のイエスの伴侶であった女性は、イエスの死後、彼との間にできた子供を連れて、現代のフランスの辺りまで、逃げ延びてゆき、そこで、現代のキリスト教とは、少し異なる、霊的な結婚やセックスの秘儀を重んじるような、一種の神秘主義的な色彩のキリスト教の一派を、細々と継承してゆくようになってゆきました。

 それから、もう一方の一派としては、今日では、「ペテロ」として知られている人を中心に、各地に、イエスの教えを広めてゆこうとした一派があったのですが、ここで一つ問題が巻き起こるのですが、それというのは、当時のペテロという人を初め、イエスの弟子達には、当時の中東としては、少し学が足りないようなところがあったために、行く先々で、結構、大変な迫害に遭うことが、たくさん続いてしまった、ということなのです。

 そこで、これは、本当は、彼自身としても、あまりやりたくなかったはずなのですが、とりあえず、イエスの教えの最重要なポイントである、神への信仰や愛や知恵や希望の部分さえ伝われば、それをもって、当面は、よしとすることにして、いちいち、いろいろ誤解されやすい結婚やセックスに関する話は、ある程度、控えておくことにしよう、などという具合に、実際のイエスの教えを、若干、伝道のために、実質的に変更して、各地に広めることにしていった、ということなのです。

 その後の経緯は、キリスト教の歴史に詳しい方なら、よくご存知の通りの、大変な悲劇の話が続くことになったのですが、ここで伝えたいのは、本当は、イエス自身の考えとしては、人間として、あまり極端な我慢や不幸を強いることになるような、結婚やセックスの否定というのは、そもそも、全く考えていなかった、ということと、それと、結局、その後のキリスト教の歴史では、教会の公式な態度としては、普通の信者には、結構、厳しく罪の意識や、その償いのような話をして、結婚やセックスに対して、否定的な態度をとることが多かったにも関わらず、そうしたキリスト教の組織の内部では、霊的な結婚やセックスの重要性は、結構、それなりに、しっかりと伝授されてゆくようなところがあったので、多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、キリスト教というのは、表向きは、結婚やセックスに厳しいけれども、そうした組織の奥や末端の部分では、普通の人々には、あまりよく分からないような形で、霊的な結婚やセックスの秘儀というものが、近代に至るまで、連綿と、しっかり伝わっていたようなところがあった、ということなのです。

 それゆえ、カソリックの基盤が揺らいだ、数百年前の宗教改革ぐらいの時代になると、「いくら結婚や性欲を我慢しても、全然、心からの救いや平安なんて、ないじゃない?」、というような、キリスト教徒の本音が、そのまま、ストレートに表現できるようになり、その結果、それ以降の新教の時代には、牧師であっても、結婚もセックスも、全然、OK、という時代に大きく移り変わってゆくことになるのですが、それもこれも、元をたどると、最初にイエスが説いた教えが、表向きの宗教的な建前で、がんじがらめに固められてしまっている部分と、裏の人間的な本音が、そのままストレートに出ている部分とで、あまりにも、きっちり分けられすぎていることが、原因になっているようなところがあった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 要するに、信仰や愛をメインにした宗教で、結婚やセックスを否定するのは、本質的に、人間性の根源的な否定につながるので、かなり問題だったのではないか、ということと、そうは言われても、普通の人間には、そんな厳しい戒律は、とてもではないが、守りきれるものではないので、その結果、そうした宗教の表向きの建前と、裏の人間としての本音の部分が、見事に分裂して、いっけん、普通の信者には、かなり厳しい戒律を守らせようとするのだが、裏では、「秘儀」と称する、それなりに、結構、めちゃくちゃ、というか、今日的な目で見ると、わりと自由な形での、この世的、あるいは、霊的な形での結婚やセックスが、普通に行われるような宗教形態になってゆきやすかった、ということです。

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月26日 9:03 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 結婚、家庭

イエスについて Part 2

2、少し前までのキリスト教では、あまりにも強く、疑うことの怖さや、信じることの重要性を強調しすぎたために、実際問題として、キリスト教信者が、死後の世界に赴くと、導きの天使の話に、全然、従わずに、本当の天国ではない、低次元の疑似天国や幽界や、疑似地獄のような世界に、何十年も、何百年も、そのまま、ずっと留まり続けるようなケースが、非常に多かった

 第二には、これは、少し言いづらい話になるのですが、キリスト教には、根本的な問題点があって、それというのは、キリスト教というのは、とにかく、「信じる」ということを熱烈に強調してくる宗教であったために、霊的に見た現実としては、キリスト教の信者が、亡くなった場合、すぐに霊界の天使のような存在達によって、より高次元の天国のような世界に連れて行ってもらえるようなケースは、全く問題ないのですが、ところが、その反対に、あまりにも、そうした生前の信念が強すぎるために、死後、その人の周りに、その人自身の信念の力によって、その人独自の死後の世界を強く投影してしまい、なかなか、そうした天使のような存在がやってきて、一生懸命、話しかけようとしても通じずに、そのまま何十年も、何百年も、そうした、その人独自のキリスト教的な強い想念の世界の中に留まってしまうケースが、これまでの時代には、非常に多かった、ということなのです(この辺りの霊界での混乱の話は、キリスト教圏の霊界物の話には、非常に多いですよね)。

 つまり、前にも述べたように、人間が死ぬと、死後の世界では、肉体がないために、自分の心の中の世界が、わりと、そのままストレートに実現するようになってゆくのですが、その結果、生前から、あまりにも強い死後の世界のイメージ、というか、強い信念のようなものを持っていた場合には、そうした自分自身の強い信念を投影して、周りから、やってくる霊の声など、全く聞かずに、自分独自のミニ霊界のようなものを形作って、そのまま、その中に、本当に、何十年でも、何百年でも、閉じこもってしまうような人が、これまでの時代には、非常に多かった、ということなのです。

 こうした観点から見ると、特に一昔前のキリスト教の場合、「とにかく、強い信仰を持たなくてはならない」、とか、「キリスト教以外の話は、悪魔の話なので、一切、耳を貸してはならない」、などと、一刀両断されてしまうことが、非常に多かったために、キリスト教の信者であった人々が、いざ生前の生活が終わって、死後の世界に行ってみると、天使のような存在達が、いくらやってきて、話しかけても、全然、耳を貸さない、とか、ちょっとキリスト教的でない話をすると、すぐに拒否感を出して、逃げ出そうとする、などという具合に、その人独自のキリスト教的精神の中に、どっぷり浸ったまま、そのまま、かなり長い期間に渡って、あまり高いとも、幸せとも言えないような、ちょっと薄暗い低次元の領域に、ずっと滞在し続けてしまうような事態になることが、非常に多かった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月25日 9:02 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 時間と空間の秘密

イエスについて Part 1

 明日は、クリスマスなので、少し「イエス・キリスト」についての話をしてみたいと思います。

※ここでの「イエス・キリスト」についての話は、この時代から見ると、もはや分からなくなってしまった、いにしえの時代のイエスに代表される、さまざまな聖者の話ではなく、前に述べたような経緯で、キリスト教の成立以降、現代人から見ると、あたかも本当に実在しているかのように見える、イエス・キリストの話、つまり、現在の聖書で述べられているような「イエス・キリスト」についての話になります(相変わらず、巷のメリー・クリスマス調ではなくて、ちょっと、風変わりな話になりますが・・・)。

 

1、今日の世界の宗教的な現実から見る限り、確かに、キリスト教信仰によって、非常に多くの人々が、心の安らぎや悦びを見いだしているのは事実だと言えるが、約2000年前の「イエス」と呼ばれた人物が、「神の一人子だった」、とか、「神に選ばれしメシア(救世主)だった」とは、とてもではないが、言えないような厳しい現実がある

 まず最初に、今から約2000年前の中東で活躍した「イエス」(当時のアラム語では、「イエシュア(Yeshua)」と呼ばれていたようなのですが、日本語で、「イエス」と呼ぶと、全く別の意味なのに、英語の「イエス」と、とても混乱しやすいですね)と呼ばれた人物が、全世界を救うメシア(救世主)であったのか否(いな)か、ということなのですが、これは、現代の人々にとっては、一目瞭然なのではないか、と私は思うのですが、当時のイエスと呼ばれた人物が、確かに傑出した霊的な覚者のような存在であったことまでは、ほぼ誰もが認めるのではないか、と思うのですが、ただ彼が、全世界を救うキリストのような存在だったのか、と言われると、残念ながら、そこまで偉大な覚者とは言えなかったのではないか、というのが、多くの人々の正直な実感なのではないか、ということです。

 つまり、いくら当時のイエスという人物が、霊的に、かなり傑出した人物であったとしても、今日のキリスト教の広がりを見てみれば、よく分かるように、アメリカやヨーロッパやオーストラリアやアジアの一部は、ともかくとして、それ以外の東洋では、仏教や儒教、インドでは、ヒンドゥー教、中東や東南アジアでは、イスラム教・・・、という具合に、どう考えてみても、今日のキリスト教の実情を見てみる限り、キリスト教によって、非常に多くの人々が、心の平安や悦びを見いだしていることは、確かに事実であるとしても、ただ現実には、「彼だけが、神の一人子であった」、とか、また、「全世界の人々を救う、偉大なメシア(キリスト)であった」とは、なかなか、言いきれないような厳しい現実があるし、また、キリスト教自体に関しても、今日のキリスト教が、世界中の20億人以上の人々に信じられている、世界的な大宗教であることまでは認めるけれども、全世界、70億人の人々全員に信じられているわけではないので、現実の実態としては、当時のイエスと呼ばれた人物が、全世界すべての人々を救うメシアであったとは、とてもではないが、言えないのではないか、というように、私は、率直に考えております。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 先日の話で、また怖い未来の話で、少し怖かった、という意見を頂いたのですが、これは、霊的に敏感な方なら、かなりはっきり分かるのではないか、と思うのですが、現在の霊的な状況は、わりと波動的に軽くなって、調和したライト・サイドの領域と、その反対に、かなり波動的に暗くて、恐ろしい感じのダーク・サイドが、かなりはっきり分かれてきている状況なので、現実には、時により、場所により、人により、また、霊的な条件により、良くなったり、悪くなったりで、結構、厳しいところがあります。

 霊的に敏感な方だと、多分、時間的に、波動の上り下がりがあるのと、それから、空間的に、場所ごととか、霊的に見て、わりと上の方と下の方が、かなり波動的に違うのが、観測されると思われるので、それについての正直な見解である、ということです。

 ただ、これは、前にも述べましたが、こうした霊的な予言に関しては、基本的に絶対的な決定事項というのは、ほとんど、なくて、「現在の状況から見ると、そのように未来の状況がなっている」、ということに過ぎないので、こうしたブログからの発表も含めて、「その後、いろいろな人々が、いろいろなことをした結果、そうした未来が回避される、というのは、よくあることである」、というように、わりと冷静に見ていただくと、とても幸いです。

 ちなみに、部分的には、いろいろ問題があるのですが、全体的に見ると、未来からの機械文明からの介入というのは、だんだん、回避されつつあるのですが、「じゃあ、そのまま、今のままで、どんどん行こう!」、などと言っていると、この前、述べたような方向の未来に、逆に確定してゆくような方向性になってしまう、というような、非常に困った問題が、現在の地球の時空間では、発生している、ということです。

 ですから、霊的な予言のようなものに関しては、あくまで、「そのような見方もある」、という程度に、あまり深く確定的な見方をするようなことは避けると共に、「それなら、こうすれば、未来は、良い方に変わるのかな」、という具合に、もう少し流動的で、変更可能な未来の見方を持っていた方が、私は、わりとハッピーな生き方ができるのではないか、というように、率直に考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月24日 9:02 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観