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イエスについて Part 4

2、キリスト教の「ユダ」にまつわる話には、根本的なところで、かなり大きな疑問がある

 第二には、これは、今日でも、かなり誤解が多い内容になっているのではないか、と思われる内容になるのですが、キリスト教の「イエス」と言えば、裏切り者の「ユダ」(正確には、「イスカリオテのユダ」のことですが、最近の流行歌では、何だか、人気者らしいですね・・・)、という具合に、今日でも、非常に悪名高い「ユダ」という弟子がいたことになっているのですが、このユダの話も、実際の話とは、かなり違っていたのではないか、ということです。

 このユダの話に関しては、今日でも、キリスト教の外伝や他の宗派や、あるいは、イスラム教などで、いろいろな別の話が伝わっているので、正直言って、外部の人から見ると、何が何だか、よく分からないようなところがあるのですが、簡単に要約すると、大体、以下のようなことが言えます。

 

イエスが、かなりの霊的な覚者であったにも関わらず、ユダを、彼の最重要の側近に採用したとする場合には、どうしても理解しがたい二つの疑問が出てくる

 まず第一には、これは、霊的には、はっきりしていることなのですが、もし、イエスという人物が、かなりの霊的な覚者であるにも関わらず、彼の側近のような最重要のポジションに、近い将来、裏切ることになるような人物を取り立てたのであるならば、こうしたケースの場合、もし、その後、ユダが裏切って、イエスが、無実の罪で引っ立てられたり、裁かれたりしたとしても、この場合の霊的な罪は、ほぼ間違いなく、ユダの側にあるのではなくて、イエスの側にあることになる、ということです。

 それゆえ、そうしたキリスト教の外伝のような話には、「ユダの裏切りは、あらかじめイエスが望んだことであった」、というような記述が見られることが、非常に多いのですが、それは、当時においても、また、現代においても、そうした、「そこそこ霊的に優れた覚者のような人物であるならば、いくら何でも、近い将来、自分を裏切るような人物を、十二弟子の一人というような、最重要のポジションに取り立てるはずないではないか?」、というような、多くの人々の素朴な感想、というか、素朴な疑問が、その背景にあるからなのです。

 第二には、これは、少し言いづらいのですが、それでは、聖書の通り、当時のイエスが、ものすごい霊的な覚者であったにも関わらず、近い将来のユダの裏切りが、全く予見できずに、その後の突然の不意打ちのような出来事によって、そうした不当な拘束や裁判の犠牲になったとするならば、この場合、霊的に見た因果関係としては、当時においても、また、今日においても、多くの人々の普通の物の見方としては、どうしても腑に落ちない異常な部分が、幾つかあることになります。

 まず一つめは、ユダが、イエスを疑ったり、不審な行動をし始めているのであれば、その時点で、イエスが、普通に親しく、丁寧に、彼に話しかけて、そうした不信や間違いを解いてやれば、良かったのではないか、ということです。

 それから、二つめは、これは、単純な話になるのですが、もし、聖書の話の通り、突然のユダの裏切りによって、イエスが、不当な裁判で処刑されてしまった場合には、確かに、死後、イエスが、再び復活して、生前の彼の話や、死後の世界の証明をすれば、その後のイエスは、一種の「神」、もしくは、「神の一人子」のような、霊的に最高のポジションにつくことになるのでしょうが、その場合には、キリスト教が続く限り、「ユダ」と聞けば、「もう最低の裏切り者!、悪魔!」、などというように、はっきり言って、その後のユダは、地上にいても、霊界にいても、どこに行っても、最低のウジ虫呼ばわりされるような存在になるに決まっている、ということなのです。

 そうすると、この場合、もし、イエスと呼ばれる人物が、本当に「神」のような慈悲深い存在であったとするならば、なぜ、自分が、「神」や「神の一人子」のような、霊的に最高の存在になるために、その代償として、もう一人、最低の悪魔呼ばわりされるような人物を作らなくてはならなかったのか、というのが、普通、ちょっと考えてみると、全く納得が行かない、というか、はっきり言うと、聖書に記述された、当時のイエスの超能力から推定する限り、これでは、ユダが悪いというよりも、本当は、そんなユダ役を生み出したイエスという人物の方が、一枚も二枚も上手の、本当の策士、というか、正真正銘の本当の詐欺師のような人物になってしまうのではないか、ということなのです。

 

イエスとユダにまつわる、二つの仮説について

 そうすると、ここで推測すると、二つの仮説が成り立つことになります。

 まず第一には、本当は、イエスという人物は、それほど、ものすごい霊能力を持った覚者のような人物ではなくて、裏に何かあって、いろいろなマジックのようなものを操って、まるで神のように見せかけただけではなかったのか(これは、歴史的には、ずっと疑われ続けていますが・・・)、という仮説になります。

 ただ、これは、キリスト教のその後の発展の経緯を見る限り、昨今の新興宗教の盛衰の状況を見ても、これほど大きく大発展した宗教は、全くないので、私は、やはり、当時の「イエス」と呼ばれた人物には、普通の人とは、全く違った、ものすごい何かがあったのではないか、というように、単純に理解したいと思うので、おそらく、これは、間違いなのではないか、ということにしておきたいと思います。

 第二には、これは、ちょっと変わった話になるのですが、要約すると、イエスの話自体の、大まかな彼の人物像や能力や逸話は、ある程度、本当だけれども、それ以外のユダの裏切りや、その後の不当な拘束や裁判や、さらには、その後の復活と昇天の部分に関しては、何らかの理由で、横やりが入って、彼の生前か、あるいは、死後の段階において、かなり強引に、ある一定のシナリオにおさまるように、何物かが、当時のパレスチナの政府に秘密裏に介入するか、あるいは、その後のキリスト教会に、不当に介入するなどして、単なる中東の一予言者、もしくは、霊的なマスターのような立場から、無理やり、ユダヤのメシアや、世界のキリスト(救世主)のような人物になるように、話をすり替えたのではないか、というような仮説になります。

 ここでは、これ以上は、あまり深入りしたいとは思わないのですが、要するに、私が言いたいのは、確かに、古代の中東を初めとするような、中央アジアやヨーロッパやアフリカなどにおいて、多くの人々から、現在のキリスト教として知られているような、単純に信じることによって、救いや平安が得られるような宗教が必要とされた、というような歴史的な事実までは、私も認めるのですが、ただ当時の人々の感覚としても、また、現代の人々の感覚としても、よく考えてみると、どうしても、そう簡単には、理解しがたい、キリスト教発祥にまつわる非常に深い謎、というか、どうしても、そう簡単には、納得しえないような深い矛盾や疑惑のようなものがある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 要するに、昨今のたくさんの映画を見たり、たくさんの小説を読んだりした経験のある方なら、これは、わりと単純に理解できるのではないか、と思うのですが、正直言って、昔の人なら、ともかくとして、そうした、たくさんのエンターテイメントに接したことのある現代人の目から見ると、聖書で述べられているイエスの話に関しては、特に、途中からのユダの裏切りのエピソードの部分が、なんか、ちょっと不自然なのではないか、というか、ちょっと、まるで、後から、誰かが、そういうシナリオになるように、人工的に作った作り話のように感じられるところがある、ということが、ここで伝えたい趣旨になります。

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月27日 9:13 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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