三つめは、今度は、少し難しい問題が関わってくるのですが、人間が、本当に物事をわかろうとしてゆくと、内容によっては、何らかの形で様々な苦労や犠牲を強いられることがあるので、そうした際に、その人自身として、また、その人の属する家族や集団や社会として、さらには、この宇宙を現在もあらしめている創造主の立場として、いったいどこまでをよしとして、また、いったいどこからをダメなものとしてゆくのか、ということに関しては、結構難しい判断を要求されてくるようなところがあります。
残念ながら、これまでの人類の歴史を見てみると、結果として人類は非常に大きな知恵を得ることには成功したが、その過程では、多くの人々が散々ひどい目に遭ったとか、一部の人々が、とても悲惨な犠牲を強いられることになったとか、あるいは一部の動物が、たくさん実験に用いられて苦しんだというような話も非常に多いようです。
ですから、はっきり言って、こうした「何らかの物事をもっと知りたい、わかりたい」というような人間的な欲求と、「これ以上、人間や動植物を傷つけたり、大事な物を壊してはいけない」というような社会的な倫理観のはざまで、おそらく今日も一部の人々は、「どこまでが善で、どこからが悪なのか」ということをかなり切実に模索し続けているのではないか、と私は思うのですが、こうしたことに関しては、大まかに言うと、次のような二つのことが言えます。
一つめは、これは単純な話になりますが、たいていの場合、多くの人々の自然な良心に基づく倫理観と、そうした倫理観や多くの人々の利害関係に基づく社会の法律によって、自然自然のうちに、ある程度正しいと思われるガイドラインのようなものが決まってくることが多いので、たいていの物事に関しては、そうした倫理観や社会の法律に基づく何らかのガイドラインによって、「ここまではよしとしてよいが、これ以上はやってはいけない」というような判断を、きっちりつけてゆけばよいのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2016年12月23日 9:03 PM, 知恵、正しさ