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戦前戦中の「大日本帝国」と戦後の「日本国」の違いについて Part 14

 少し前に書いていた文章の補足です。

 

※これはあまり指摘する人が少ないような話になるのですが、一般にヨーロッパで発達した「立憲君主制」と呼ばれるような政治上の仕組みは、どちらかというと少し前の時代によくありがちだった王や皇帝(君主)の行き過ぎた権力の濫用を制限するために、その家臣に当たる貴族や有力者のような人々が、「王や皇帝は政治上、ここまではやってよいが、これ以上は貴族や有力者の代表(後には、一般市民の代表も)の一定以上の賛成(議会の承認)がないと何もしてはいけない」(昔から戦争や税金の問題が多かったようです)などというように、その時々の王や皇帝の権力の制限のために発達してきたようなところがあります(逆に言うと、その時々の王や皇帝などの側としても有能な人々に政治を任せられると共に、そうした政治上の責任を何にもかも問われなくてもよくなるような利点があります)。

 ところが「大日本帝国憲法」の場合、例の有名な「天皇は神聖にして犯すべからず」という言葉からもある程度推測できるように、よく調べてみると当時の明治時代の日本特有の事情もあるのでしょうが、単純に言うと当時の日本国民(当時は臣民と呼んでいましたが)の権利や財産はある程度保障するし、また議会も一応作るけれども、国家の実質的な権力の大半は(軍事、立法、行政、司法など)、その時々の天皇、及び天皇直属の政府や軍部に帰属するような内容になっているので、はっきり言うと欧米的な立憲君主制の概念、つまり憲法や法律によって、王や皇帝の権力を一定の範囲内にきっちりと制限するような欧米的な立憲君主制の概念とはほぼ正反対に、憲法や法律によって、その時々の天皇や天皇直属の政府や軍部の権力をかなり強い形で、ほぼ無制限に正当化するような、かなり変わった憲法の位置づけになっていたようなのです。

※大日本帝国憲法では、そもそも「統帥権」の問題が起きる以前から軍部は天皇直属の組織になっているし(なので天皇は、当時の日本陸海軍の最高指揮官の大元帥になっています)、また現在の日本の内閣とは全く違って、首相も大臣もすべて同列で、天皇の補佐役の位置づけにすぎないような扱いになっています。

 あと戦前戦中は、大日本帝国憲法は「不磨の大典」(完全に完成された、全く変更の必要のない最高の法典のような意味です)などと言われていたこともあるようなのですが、おそらく戦前戦中のインテリの人々が見ても、また戦後の少し教養のある人々が見ても、大日本帝国憲法の法律としての完成度は、人権や内閣の明確な規定がないことや、その後の様々ななし崩し的な運用状態から見る限り、それほど優れた憲法であったとは言えないようなところがあるのではないかと思われます。

 ただし、明治時代当時の日本特有の事情として、当時の日本政府としては、何とか国民一丸となって、欧米に引けをとらない一流国を目指そうとしているのですが、ところが、国内では何かをやるにしても、かなり大勢の反対者が待ち構えているばかりか、場合によっては、あちこちですぐに暗殺や反乱も起きかねないような社会状況であったし、また国外も様々な侵略の脅威があるようなかなり不安定な国際状況であったので、そうした当時の日本特有の事情として、何とかその時々の天皇を絶対的に神聖視させることで政府の権威と正当性を高めて、できるだけ安定した国づくりを行おうとしていたのではないかと思われます(参考)。

 

 続く・・・

 

 追伸

 少し話は逸れるのですが、「昔の大日本帝国憲法の問題点について」は、こちらになります。

 

Cecye(セスィエ)

2015年8月14日 9:03 PM, 政治 / 歴史 / 社会、文化 / 軍事



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