2、現代人を取り囲んでいる日常品のほぼすべてが、一昔前の人々の目から見ると、まるで魔法そのものに見間違うばかりの最高に完璧かつ完全な品々やサービスやシステムばかりなのである
さて、それでは、世の中には、最高に完璧な存在というのは全くないのか、というと、そんなことはなくて、実は、みなさんの周りには、何百年も昔の人々の目から見ると、どう考えてみても最高に完璧かつ完全な物が、たくさん満ち溢れているように見えるのではないか、ということなのです。
それは、いったい何なのかというと、例えば、今、みなさんが見ているコンピューターやスマホのようなものは、現代人にとっては、日常のよくある電気製品の一つに過ぎないかもしれないのですが、おそらく数百年前、いや数十年前の人々が見た場合には、何千キロも離れた外国の人と一瞬で手紙のやり取りができるばかりか、本物と見まがうばかりに鮮やかな美しい写真や楽しい音楽を一瞬で共有できたり、相手の顔を見ながら話し合ったりできるなんて、おそらく、まるで魔法そのものか、あるいは、究極のコミュニケーション・ツールのように見えるでしょうし、また、街中を明るく照らす電気照明の技術や、水道やガスによる簡単かつ安全、清潔な調理やシャワーのシステムや、あるいは、身近な本やノートや、それから政治や企業の運営ノウハウにしても、おそらく数百年前、あるいは、数十年前の人々のレベルから見れば、まるで魔法そのものか、あるいは、ほぼ最高かつ完璧な物のようにしか見えないのではないか、ということなのです。
つまり現在、みなさんの生活を取り囲んでいる様々な品々やサービスやシステムのあり様というのは、一昔前の人々の目から見ると、「ああ、こうなっていれば、楽なのにな〜」とか、「ああ、こんなものがあったらいいな〜」とか、「ああ、もし、この問題が解決されていれば、最高なのにな〜」というような、せいぜい映画や小説やマンガのネタにしかならないような、たわいのない夢や空想の数々が、時代の流れと共に次々と現実化され、改良され続けてきたものばかりなのであり、そして、そうした人類の歴史のたくさんの偉大な成果の宝の山の上に暮らしているのが、まさに現在の私達の生活であるということなのです。
Cecye(セスィエ)