⑩信仰生活や、愛や感謝の生活の問題点について
十こめは、これは霊的な人には、かなりショックな話になるかもしれないのですが、実は、愛と感謝の精神には、大きな欠陥があって、それというのは、こうした愛や感謝の生活をしている人というのは、なぜか、ほぼオートマチックに、ある一定の物の見方に凝り固まってゆきがちである、というか、人の意見をあまり深く考えずに、反射的にパンパンと弾いていってしまうようなところがあるのです。
そうした種類のものは、幾つもあるのですが、例えば、いっけん、ちょっと汚そうなお金や暴力や、セックスや博打のような人間の欲望や利害の絡んだ話であるとか、あるいは、いっけん、ちょっと難解で、そう簡単には理解できなさそうな学問や科学や、法律や歴史に絡んだ話であるとか、それから、これは、もっと相手にされないことが多いのですが、いわゆる化け物や幽霊や怪奇現象に絡んだホラー的な話などというように数えてゆけば、本当に切りがないのですが、こうしたものに関しては、なぜか、ほぼオートマチックに反射的に、「これは嫌い、これは嫌!」、「こんなもの、どこかに行って!」というような具合に、精神的に弾き出してしまうことが多いようなのです。
ところが、そうした、いっけん霊的、宗教的には、絶対に正しそうな判断によって、多くの人々の人生や霊的な生命に対して、ほぼ致命的と言ってもよいような大変な失敗や混乱をもたらしてしまうことがあるのです。
実は、今日、宗教や道徳が、多くの人々に非常に大きな幸せや精神的豊かさをもたらしているにも関わらず、なぜか、そうした人々が住んでいる社会に、次々とさまざまな犯罪や混乱が起きてくる間接的な原因に、こうした宗教的な人々が、ほぼ反射的に全面否定したくなるような社会の暗部の問題、というか、人間のネガティブな側面の問題があるのですが、これに関しては、だいたい次のような三つのことが言えます。
まず一つめは、これは単純なことなのですが、普通、常識的に考えて、多くの人々は、「多分、これは嫌なはずだよなあ」とか、「普通、こんなものない方がいい」と考えていると思われるにも関わらず、なぜか、その社会にそうしたものが、ずっと消えずにそのまま残っている場合には、霊的にも、また、この世的にも、絶対にそのまま放ったらかしにせずに、何らかの霊的な調査や学問的な調査、さらには政治的、社会的解決のための手段を講じるのが、長い目で見ると、ほぼ絶対に賢明であるということです。
こうした話は、たいてい、政治家も役人も、経営者も学者も嫌がることが多いので、本当に、ほんの少数の、かなり変人すれすれのような専門家みたいな人(私も?)しか、あまり深く関わらないことが多いのですが、社会的には結構、後で大問題や大被害につながるような大変な事件や出来事の裏には、かなり長い期間に渡って、そうした問題が潜伏し続けていたことが多いのです。
二つめは、これは、あまり言われないのですが、ある面、社会というのは、多くの人々の心の映し絵のような側面があるので、もし、その社会の一端に、何らかの訳の分からない、あるいは、とんでもない犯罪や災難や不幸や混乱のようなものがある場合には、これは、たいてい宗教的なきれい事の建前や、社会的な前例や、権力に関係する人々の利害が絡んで、何もされずに先送りされることが多いのですが、いったん、そうした建前や前例や利害関係などは少し置いておいて、そうした問題に、ほんの少数の人々だけでもいいので、全面的に取り組んで、何らかの解決のための手段を講じた方が賢明なところがあります。
もう少し具体的に言うと、例えば、テロや犯罪の増加を、単なる悪や罪などと断定するのではなく、別の側面から教育や経済の問題として考え直してみるとか、異常現象を、単なるオカルトと捉えるのではなく、何らかの科学現象として考え直してみるような取り組みをしてみた方が、そうした問題の解決に、よほど効果があることもあるということです。
三つめは、これもあまり言われないのですが、実は、現在、みなさんが毎日、大変な恩恵を受けている政治や経済や学問に関する内容の元をたどってゆくと、昔は、ほぼ全部、単なる博打やオカルトや、宗教的罪悪や、きちがいの戯言と言われていたような内容が、ほとんどだったのではないか、ということです。
そうした目で見ると、現代であっても、そうした、いっけん汚くて、全然訳の分からない大変問題のありそうな内容を、学問や科学の対象にしてゆくと、近い将来、人類は、大変な恩恵を受ける可能性もあるということです。
例えば、ほんの数百年前まで、病原菌の存在は全く知られていなかったので、病気は、ほぼ全部、神の意思や、運の悪さや、悪魔の仕業のように見られていたようですし、それから昔の人が、今日の経済繁栄の様子を見たら、おそらく大勢の人々が、毎日、無意味な作業や、浪費や博打や享楽に狂っているなどと言うのではないか、と思われるのですが、要するに現在、みなさんが日々、大変な恩恵を受けている政治や経済や学問などの大多数の内容は、ほんの数百年前の人々から見たら、たいてい、単なる博打やオカルトや、宗教的罪悪や、きちがいの戯言のように言われていたことが、ほぼすべてなのではないか、ということなのです。
ですから、こうした目で見ると、実は、多くの人々が、パッと目を背けたくなるような社会の暗部の問題や異常現象というのは、見方を変えると、それらを、ちゃんとした学問や研究の対象にしたり、政治や経済の解決手段にしてゆけば、今後、多くの人々に、非常に大きな幸せや豊かさをもたらす大きな財産になってゆく可能性もあるということなのです。
このように愛や感謝の気持ちを持つことは、単に我慢することや、何も考えないことや、何も言わないことや、何もしないこととは全然違うので、たとえ、宗教的、あるいは、霊的に、常に愛や感謝の気持ちで生きることが正しいことであるとしても、人間として、やるべきことはしっかりやり、言うべきことはしっかり言い、考えるべきことはしっかり考えるというような生き方は、とても大切なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)