⑧神仏への愛と感謝について
八つめは、これは、あまり言われないかもしれないのですが、特に神仏や、天使や菩薩といった霊的存在への愛や感謝に関しては、次のような注意点があります。
まず一つめは、たとえ尊い神仏の絵や像や象徴のようなものがあったとしても、絶対にそうした神仏の絵や像や象徴のような物自体に、あまりにも過剰に愛情を持ちすぎたり、畏敬や感謝の念を持ちすぎてはいけないということです。
二つめは、これは霊的には、とても危険なことなのですが、少し霊的なことが分かるようになると、霊的な光や存在が感じられるようになることがあるのですが、基本的には、いくら大きな霊的な光や、何らかの存在を感じられたとしても、そうした霊的な光自体や、目に見えない存在自体を、あまりにも盲目的に仰ぎ立ててはいけないということです。
三つめは、これは非常に注意が必要なのですが、世の中には、恐怖や迷い、それから、ある種の欲望や執着の思いのことを、すっかり神仏への信仰だと思い込んでいる人がいるので、これには、本当に細心の注意が必要です。
つまり、本当に自分の心の奥を見定めてゆくと、本当は、何らかの怖れや弱さや怒りや、あるいは、何かへの強い欲望や、何かにすがりつきたい執着の思いのことを、一生懸命、「信仰、信仰」と言って、自分自身の本当の弱さや問題に向き合わない人がいるのです。
ですから、こうした人の場合は、もう一度、信仰の原点というよりも、まずは人間の原点に立ち返り、「自分が、本当に求めていることは何なのか」、あるいは、「自分は、本当は何がしたいのか」ということを、もう一度突き詰めて、よく考え直す必要があるのではないか、ということです。
四つめは、これは、かなり厳しい話になるのですが、神仏への信仰によって、人間的な自信を築くことは可能だが、本当に人間としての自信を築いてゆくためには、いっけん信仰とは正反対の、この世的な学業や仕事や生活の中で、「自分は、この程度のことは、しっかり出来るんだ」とか、「これは言うのは簡単だけど、やってみると、とても難しいんだ」とか、「これは考えていたよりも、やってみたら、遥かに簡単だった」などというように、ある程度、この世的な体験を積み重ねてゆく必要があるということです。
ところが、それだけでも人間的な完成というのは、なかなか難しくて、やはり、ある程度の霊的、あるいは、宗教的な知識や体験や思索であるとか、他の人々との交流や、それから自分自身で、そうした霊的、宗教的な話をするような体験がないと、霊的には、なかなか高度な高みに達してゆけないようなところもあるので、本当の信仰というのは、単に信じればいいとか、単に強く念じればいいとか、とにかく、ずっと1つのことを考え続ければいいというようなものではない、ということは、ある程度、理解しておく必要があります。
それでは、本当の神仏への愛や感謝においては、いったいどのようなことが大切なのかというと、次のような二つのことが言えます。
一つめは、単純に、この宇宙の創造主なら創造主、あるいは、もう少し具体的に釈迦なら釈迦、キリストならキリストという具合に、とにかく自分が愛し、感謝の気持ちを捧げる存在が、「この存在」、「この人物」、「この霊的存在」などというように、きっちりと明確に、はっきりしていることが、とても重要になります。
二つめは、今述べたような形で、特に具体的に「この人物」とか、「この宗教のこの存在」などというように、はっきりした存在や人物が信仰の対象でない場合には、基本的には、そうした存在や人物への愛や感謝は、とても大切だけれど、どちらかと言うと、今、自分が身近に接している人々や生き物達への愛や感謝を大事にすることです。
昔から「神仏、神仏」と言いながら、身近な人々に乱暴したり、粗暴に振る舞う人々が、とても多かったのですが、霊的には、これは明らかな間違いで、特にこれと言った具体的な存在や人物が信仰の対象でない場合には、まずは、自分にとって身近な人々や生き物達への愛や感謝、そして、自分自身への愛やいたわりが、とても大事になるということは、よくよく知っておいた方がよいと思います。
Cecye(セスィエ)