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霊的に見た日本の神道について Part 7

5、本当は、どのいかなる神社仏閣であっても、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主の光や愛や知恵や希望やエネルギーを霊的に感じて、それを信仰してゆくような宗教的スタイルであることが最も望ましい

 たくさんの宗教と比べた場合、ずばり神道の大きな特色は、何と言っても、とにもかくにも神様の種類が多くて、名前や役割がかなりごちゃごちゃしていて、分かりにくいことなのですが、大まかに言うと、現在の神道の神々には、大きく三つの系譜があります。

 まず一つめは、みなさんもよくご存知の「天照大神」を中心とする、言わば、太陽神を中心とする「天津神(あまつかみ)」の流れと、二つめは、国譲りで有名な「大国主神」を中心とする「国津神(くにつかみ)」の流れと、それから、それ以外の、ちょっとそう簡単には一つにまとめきれないような、さまざまな神々の流れになるのではないか、と思われます。

 それでは、日本の霊的な上空に該当する、「高天原」とも呼ばれる高次元の領域に、そうした神々の違いはあるのか、というと、実際には、そんなものはほとんどなくて、霊的には、ほぼただ一つの創造主に直結する霊的な系譜のみが存在している、というのが、実際の神道に関係する天界の様子になっているようです。

 さて、それでは、現在のような神道の信仰の状況としては、霊的には、いったい、どのような態度をとることが最も正しいのか、というと、大まかに言うと、次のような二つのことが言えます。

 まず第一には、これは、たくさんの神々のいる神道の立場としては、大変残念な提案になるのでしょうが、私は、現在の仏教や神道の様子をかんがみるに、基本的には、どのいかなる神社仏閣に行ったとしても、そこでこの宇宙の唯一にして、至高の光の創造主の、霊的な光や愛や知恵や希望やエネルギーが感じられなければ、そもそもそうした神社仏閣の存在の意味がないのではないか、というように考えています。

 ですから、現在、日本には、たくさんの種類の神社仏閣があるのですが、基本的には、私は、どのいかなる神社仏閣に行っても、思い致すのは、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主ただ一つであるべきであり、また、そうした霊的な光や愛や知恵や希望やエネルギーが感じられないのであれば、その神社仏閣の存在の意味、あるいは、宗教的な意味自体が全くないのではないか、というように素朴に感じております。

 第二には、そうすると、普通の僧侶や神主や信者としては、いったい、どのような態度をとればよいのか、というと、これは、ある意味、非常に簡単なのですが、基本的には、そこで祭られている神仏の名前や姿形や役割にあまりこだわりすぎずに、自分の精神を霊的に研ぎ澄まして、その神社仏閣で祭られている本当の神仏そのものに対して、よくよく思い致してゆけば、私は、本当はどの神社仏閣であっても、基本的には、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主の世界に通じるものになるのではないか、というように率直に考えております。

※神道の一つの問題点は、言霊(ことだま)というものをあまり強く意識し過ぎてしまうと、肝心要の神の霊的な存在とは、少しずれたものを本物の神と誤って認識してしまうことなので、注意が必要です。自らの心を研ぎ澄まして、天界の神仏の霊そのものをしっかり認識することがとても重要です(参考1)。

 さて、そうすると、現在の日本には、そうした創造主である神仏に近い霊的存在を祭っている神社仏閣もあれば、そうとは言えない、それ以下の下々の神々や菩薩や天といった霊的な存在、つまり、西洋の「天使」に当たるような霊的存在を祭っている神社仏閣も数多くあるので、そうした西洋の「天使」に当たるような霊的存在に対しては、いったい、どのように考えてゆけばよいのか、ということが次の問題になってくるのですが、私は以下のように考えればよいのではないか、というように考えています。

 基本的には、日本のみならず、世界中、つまり、この地球すべてが、神仏、つまり、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主の仏殿神殿であるが、そうした創造主の下のあまたの天使のような存在達に関しては、本当は、霊的には、特に祭る必要がないようなところがあるのです。

 ですから、真実の信仰のあり方、あるいは、真実の神道、神の道のあり方としては、私は、どのいかなる神社仏閣であっても、また、たとえ自分がいかなる宗教宗派を信じる人間であったとしても、基本的には、「仏」という名前や姿や役割でこの宇宙の創造主を霊的に認識するか、それとも、「神」という名前や姿や役割でこの宇宙の創造主を霊的に認識するか、ということ程度の違いしかないのではないか、ということなのです。

 ですから、私は、全世界、全宇宙の霊的な浄化、アセンションが進行している現在、今後は、どのいかなる神社仏閣であっても、また、どのいかなる宗教宗派であっても、基本的には、そうした信仰的営みによって、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主を霊的に感じて、その光や愛や知恵や希望やエネルギーが、そうした聖域から全地球、そして、全宇宙を満たし尽くしてゆくような霊的な状態になってゆくのが、今後の光溢れる世界のあり方としては、より良い、より正しい道になってゆくのではないか、というように率直に感じております。

※この宇宙の創造主と言っても、個性的にはたくさんあるので、霊的には、仏教的に「大日如来」や「阿弥陀如来」として認識しても、また、神道的に「天之御中主神」や「天照大神」(ここでは、天を照らす太陽の女神というような意味で使っています)として認識しても、全然構わないということです。ただし、これらの神仏は、本当は、ただ一つのこの宇宙の創造主の個性や役割の霊的な現れに過ぎない、というように認識していることは、とても大切になります。これは仏教や神道以外でも、儒教や道教であっても、キリスト教やイスラム教であっても、基本的には全く同じです(参考2参考3)。

※霊的には、本当は一つの霊的な存在を「荒魂(あらみたま)」と「和魂(にぎみたま)」に区別することも必要ないのではないか、と思われます。そもそもその宗教の中に何らかの手段で、神仏を霊的に封印するような要素がなければ、こうした荒魂、和魂のような分類自体が必要なかったのではないでしょうか。

※こうした形で、この宇宙の創造主のことがあまり認識できないような神社仏閣に関しては、おそらく、そこで祭ってある神仏や教えや運営者にかなり問題があるというように判断すれば、よいのではないでしょうか。

※当然のことですが、単に生前、戦争に従軍しただけで、神仏の世界に行ける、というような話は、霊的には、ほぼ全く何の根拠も信憑性もない為政者の作り話だと思われます(参考4参考5)。

※日本古来の神道の「神」と仏教の「仏」や「菩薩」を合わせ祭る「神仏習合」に関しては、昔の人々は、単に神仏の名前や個性や役割が似ているという理由ばかりでなく、その時代時代で、かなり知恵や徳望があり、また、ある程度、霊能力もあるような人々が、かなりの責任を持って、「この仏と神は、どうやら、本当は同じ存在らしいから、一緒に祭っても、多分、問題ないだろう」、とか、「この神仏を一緒に祭ったら、あちこちでちょっとした祟りや大変な神懸かりのようなものが起きて、大変なことになったので、やっぱり分けることにしよう」、などというように、結構、慎重に一緒に祭ったり、分けて祭ったりしてきたはずなので、「神仏習合」と言っても、元々、霊的には、そんなに大きな問題はなかったものと思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2013年10月15日 9:07 PM, 仏教 / 宗教、道徳 / 歴史 / 神道



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