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天皇制について Part 13

本当は、当時の昭和天皇自身が、大日本帝国憲法の改正や国際平和や民主政治の実現を、内外に向けて、かなり強く主張するべきだったのではないか

 ここからが問題になってくるのですが、要するに大きな要点としては、次の二つになります。

 一つは、この場合、おそらく天皇家の人々には、この大日本帝国憲法の問題点がかなりはっきりと分かっていたはずなので(多分、昔の元勲からの内々の話も伝わっていたと思われます)、少々問題があったとしても、大正時代はともかくとして、昭和の時代に入って、当時の天皇・裕仁は、もう政治が自分の手には負えなくなったと思った時点で、大日本帝国憲法、及びそれに基づく政治体制について、かなり抜本的な大改革を望む旨を、全国民にはっきり分かるような形で宣言すべきだったということです。

 つまり大日本帝国憲法の場合、確かに外部の人々からの憲法の変更は「不磨の大典」などと言われて、かなり難しかったかもしれないのですが、ところが、当の天皇自身が、その意向をはっきりと示した場合には、たとえ内外に多少の反対があったとしても十分可能だったのではないか、ということなのです。

 もう一つは、これもわりと単純な話になるのですが、後世には「軍部の独走が止まらなくなった」と説明されていることが多い昭和の大戦争なのですが、私は後世の人々が、いかなる説明をしたとしても、もし当の天皇・裕仁自ら、かなり強硬に平和外交や民主政治を主張した場合には、おそらく日中戦争の拡大もなければ、太平洋戦争もなかったのではないかというように考えています。

 それでは、そのことと当時の大日本帝国憲法には、いったい何の関係があるのかというと、これはよく考えてみれば、全く単純な話なのですが、要するに、もし幕末や明治の時代だけでなく昭和の時代になっても、そう簡単には奢らずに当時のアメリカやヨーロッパの優れた政治や社会の制度を日本の近代化のために、できるだけどんどん取り入れてゆこうというような政治態度を、当時の天皇・裕仁という人が率先して持っていれば、おそらく、それだけですぐに当時の日本の憲法や政治制度の矛盾に気付いただけでなく、それをいかにあまり混乱のない形でうまく変更してゆけるかということに気付けたのではないか、ということなのです。

 この意味で、はっきり言うと、当時の昭和の激動期を乗り越えるだけの政治的な資質や能力が、当時の天皇・裕仁という人にはなかったということになってしまうのですが、ここで問題なのは、もしそうであるならば、できるだけ早く国民に対して、「この憲法は事実ではない。天皇は現人神ではないし、国民が望むような統治能力もない。できるだけ早く民間の中から、たくさんの有能な人物を選んで議員を輩出し、内閣を組織できるような議員内閣制の民主政治への転換を心から希望する」というような制度改革を望む旨を、当時の国民に明確に伝えるべきだったのではないかということなのです。

 

「天皇教」や「大日本帝国憲法」は、内憂外患の明治時代を乗り切るために維新の元勲達が創作した一種の国家教だったが、昭和の時代に入ると、その矛盾や限界が次々と問題を引き起こすようになっていった

 このように現代の多くの人々が、何となく信じ込んでいるような歴史の話とはかなり違って、私は、おそらく明治期に「大日本帝国憲法」が作られた段階では、実際には多くの人々は、それほど「天皇陛下(様々)」というほど、当時の天皇を深く信任していたわけではなかったにも関わらず、当時の明治の指導者達は内憂外患の時代を乗り切るために、あえて日本の歴史上、かつてなかったほど天皇の権威や権力を持ち上げて、天皇中心の国づくりを行おうとしたというのが、そもそもの発端だったのではないかというように率直に感じております。

 ところがその後、日本は国家の近代化のみならず、日清戦争、日露戦争と、当の明治政府の人々ですら、かなり勝算は低いと考えていた、ある意味かなり無謀な大戦争に次々と勝利してしまったことから、特に昭和の頃になると本当に多くの人々が、そうした天皇教や大日本帝国憲法の権威を強く盲信するようになってしまったことが、その後の相次ぐ制度改革の失敗や政治や社会の混乱や、挙げ句の果てには、無謀な大戦争遂行による国家の破綻や荒廃を招くような結果になったのではないか、というように私は考えております(参考)。

 

 書いてみると、とても長かったですが、とりあえず、これでおしまいです。

 

 追伸

 日本では、宗教でも教育でもマスコミでも、皇室の話はいろいろタブーが多かったようなので、あまりはっきり述べる人は少ないかもしれないのですが、前にも述べたように戦争前後の昭和天皇・裕仁が、いったいどのような政治や軍事上の権限や責任を持っていたのか、あるいは、そうした政治や軍事上の決定の結果、いったい何が起きたのか、ということをある程度、冷静に理解できないと、現在の日本人全体に非常に暗い罪の意識や重い責任感がのしかかってくるようなところがあったので、数年前からある程度、冷静かつ客観的な立場からの当時の日本の政治や軍事に関する見解を述べてきました。

 私自身としては、特に特定の個人の責任を深く追求するような感覚は持っていないのですが、ただ、こうした形で多くの日本人に不当に押し付けられた罪の意識や重い責任感のようなものが排除されてゆくと、日本人全体が(外国も)非常に明るく軽くなるような霊的な成果があったように思われます(特にここ数年、かなり軽い感じになったと思いませんか?)。

 ただし、こうした文章を書くごとに物質的、霊的、異次元的にいろいろな形で、ちょっとした妨害を受けるのは、私としては非常に残念に感じております。

 

 戦争直後の日本や近隣諸国はかなり大混乱していたので、その際に戦前戦中に多くの日本人の精神的支えになっていた(逆に言うと、かなり強い洗脳的な信仰の対象になっていた)天皇制をすぐさま完全に全否定してしまうと、当時はまだ過激な戦闘派のような人々も多かったので、国内はさらに大混乱して、おそらく復興や民主主義どころの話ではなくなってしまったのではないかと思われます。

 そこでGHQは、他の元軍人の人々にはかなり厳しい制裁を行ったにも関わらず、そうした軍人の最高司令官であった当時の天皇・裕仁と、それに次ぐ皇族関係の人々の政治的軍事的問題は、とりあえず以後の日本の統治の安定性のために、ほぼ不問にしたのではないかということなのです。

 それから戦後、戦前戦中の日本人の洗脳を解くために、天皇教的な教育内容は、ほぼすべて削除し、戦後のドイツ同様、もう少し客観的な戦前戦中の国際的な物の見方や、かつて植民地や敵国とされていた国々の意見や状況を(今日的には、多少行き過ぎているとも言われていますが)、いろいろな手段で教えてゆくわけなのですが、その結果、多くの日本人は戦前戦中、本当は、いったい何が問題だったのか、また、どうすれば以後、再び戦争の惨禍を防ぐことができるのかということについて、若干誤ったというか、行き過ぎた罪の意識や重い責任感を持つようになったのではないかということなのです。

 こうした日本人の感覚が、戦後の平和や経済的繁栄に非常に良い影響をもたらしたのは確かに事実なのですが、その一方で以後、国際的に見たら、本当にレベルの高い平和かつ豊かな経済大国になれたにも関わらず、いつまで経っても、なかなか本当の豊かさや幸福感が実感されないような、かなりいびつな停滞感や閉塞感が国中に蔓延するようになったのも確かに事実だったのではないでしょうか。

 それゆえ、戦後70年近く経った21世紀初頭の現在の日本人の立場としては、もうそろそろ、かつての戦争をすべて肯定して、何もかも良いものであったかのように見るのでもなく、またすべて否定して、何もかも悪いものであったかのように見るのでもなく、もう少し冷静な客観的な視点で、その中の良かったものと悪かったもの、それから正しかったものと間違ったものについて見直してみることは、とても大切なのではないか、というように私は考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2013年7月30日 5:13 PM, 政治 / 歴史 / 社会、文化 / 軍事



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