③戦争末期の国民の悲惨な状況を招いた政治的責任は、当時の防衛上の最高責任者だった昭和天皇・裕仁にあった
三つめは、戦争末期の沖縄戦の敗北を初めとする日本のたくさんの軍事拠点の陥落、並びに大都市への空襲による被害についての話になるのですが、これは戦後の日本人は、学校の教科書の煙に撒かれたような説明で、何が何だかよく分からなくなっているようなところがあるようなのですが、こうした軍事上の敗北の責任というものを、今日の普通の政治的な目で見てみる限り、当時の防衛上の最高責任者は、どうしても陸軍や海軍の元帥や大臣(首相も含めて)ではなくて、当時の昭和天皇・裕仁になってしまうということです。
そうすると、そうした戦時中の日本の状況は、今日的な目で見た場合、いったいどのように見えるのかというと、昨今の戦争に対する普通の人々の反応とほぼ同じように、「○○という独裁国(当時の日本のイメージ)が、周辺諸国に対して非常に勝手で横暴な軍事力の行使をし始めたので、国連軍が結成されて、ついにその独裁国を包囲して軍事的にほぼ壊滅状態にしたが、依然、当の独裁者は、最後の一兵に至るまでの徹底抗戦を呼びかけているために、敵味方共にたくさんの死傷者や損害が増え続けている」というような感じに、当時の世界の大多数の人々からは見えていたのではないかということなのです(戦後、いろいろ言い訳しても、それ以前の日中戦争の国際的なイメージは、そんな感じだったのではないでしょうか)。
つまり本当は軍の最高責任者であれば、その時々の状況に合わせて、いかに死傷者や損害を減らすか、また、もしそれが不可能であった場合には、そうした戦渦を少しでも減らすために、いかに速やかに停戦のための手続きに入るか、ということが非常に重要になってくるのです。
ところが、当時の日本陸海軍の最高司令官であった昭和天皇・裕仁は、今日的な目で見ると、当時の大部分の日本人の想像や思い込みとはかなり違って、自分自身の置かれた政治上の責任や役割をしっかりと理解していなかったか、もしくは政治上の重要な判断をダラダラと引き延ばした点で、かなり問題があったのではないかということです(もっと簡単に言うと、当時の天界の意思とはかなり違っていたということです)。
※霊的に見ると幕末から明治にかけての日本は、以後の全世界的な民主化や植民地の開放や有色人種の地位の向上などの実現のために、天界からかなりの守護と指導があったので、世界史的に見ると、かなり短期間のうちに国家の近代化や数々の戦勝をあげることができたようなところがありました(こうしたことは、別に日本に限ったことでなく、世界史的には、世界中のいろいろな国や地域で起きています)。ただ、それは主として明治時代のことなので、昭和時代に入ってからの日本に関しては、大戦前後の大地震や風水害の経緯や、当時のあちこちの宗教や霊能者への神示の内容を見ても分かるのですが、特に海外への積極的な侵略や国際的な孤立政策に関しては、天界の意思とは明らかにずれたものになっていました。
④歴史のイフとしては、もし戦争末期に日本が早期停戦のための手続きに入っていた場合には、原爆の使用がなかった可能性もある
次の四つめの広島、長崎への原爆投下についてなのですが、これは前にもある程度詳しく述べたので、ここでは手短かに述べますが、客観的に見て当時のアメリカによる原爆の使用は、サイパンやグアムや硫黄島、さらには沖縄といった日本の軍事上の要衝が次々と陥落し、次には本土決戦がほぼ確定しているにも関わらず、当時の日本政府が全く何の停戦のための手続きの意思すら示さなかったことが直接の原因だったのではないかということです。
ですから、これは歴史のイフになるのですが、もし当時の日本政府が6月の沖縄戦の敗北の後、それ以上の死傷者や損害を出さないために本土での決戦を避けて、何らかの停戦のための本格的な手続きをしていたのであれば、当然、それ以降の広島、長崎への原爆の投下はなかったはずであるということになります(実際には、それ以降も当時の大日本帝国は、敵味方共にかなりの犠牲を伴うはずの本土決戦のための準備を着々と進めていました)。
つまり広島、長崎への原爆の投下は、決して当時のアメリカの横暴でもなければ、歴史の必然でもなく、当時の日本軍の最高司令官が日本の守りの要になっているようなサイパンやグアム、硫黄島、沖縄(当時は、どこも日本の一部でした)といった軍事上の要所が次々と陥落していったにも関わらず、だらだらと政治上の判断を先延ばしにして、停戦のための手続きになかなか本腰を入れて動かなかったことが、そもそもの原因だったのではないかということなのです(参考)。
Cecye(セスィエ)