③人類の歴史の中では、かなり多様な信仰観が展開してきたにも関わらず、なぜか、多くの人々は、神仏や人間の存在よりも、石や紙に書かれた絵や文字の方を信頼しがちな、不思議な精神的傾向があったようなので、注意が必要である
それから、第三には、これは、かなり厳しい話になるのですが、実は、人類の歴史では、目に見えない超越的存在としての神仏への信仰と、そうした神仏の教えを説く大宗教家への信仰と、それから、そうした大宗教家が残した大宗教経典への信奉と、さらには、そのどれでもない、人間主体の自由で勝手な生き方をよしとするような生き方との間で、何十年、何百年単位で、あっちに行ったかと思うと、また、再び、こっちに舞い戻る、というようなことを繰り返してきたようなところがあるのです。
こう言われても、少し分かりづらい人がいるかもしれないので、もう一度、別の観点から述べ直すと、要するに、人類の信仰観を見ていると、何だかよく分からないような超越的存在としての神仏を信じている状況と、そうした神仏そのもののような、偉大な人間を信じている状況と、それから、そうした神仏、もしくは、神仏に近い人間が書き残した教えの集大成である宗教聖典のようなものを信じている状況と、さらには、そのどれでもなく、どちらかと言うと、多くの人々が、その時々の社会の偉い人の言いなりで生きている状況や、あるいは、多くの人々が、わりと自由に勝手に生きている状況の、大きく五種類の状況があるのです。
ところが、そうした状況の中でも、多くの人々が、なぜか、これだけは、絶対にすごいと思った、あるいは、なぜか、これだけは、絶対に信頼できると思った、と思われるような、人類史上、最高の存在があるのですが、それが、よく考えてみると、神仏でもなく、また、人間でもない、わりと平らな石や紙などに書かれた絵や文字の集まりだったのではないか、ということなのです(たいてい、どの時代のどの状況でも、多くの人々が、わりと熱心に読んで、理解し、信じようとしていることが多かったようなので・・・)。
つまり、今日の日本のように、たとえ、それほど熱心に宗教なんて信じないような人が多い社会であっても、多くの人々は、神仏や人間の話は、ともかくとして、なぜか、テレビやコンピューターのディスプレイや、書物や、額縁に入った絵や文字の描かれた物に対してだけは、結構、真剣に見たり、読んだりしようとするようなところがある、ということなのですが、実は、人類が、最後の最後に、直接、対決しなくてはならない、人類以上の訳の分からない存在の根源とは、そうした人間以外の、絵や文字の描かれた板、もしくは、平面のようなものであった、ということなのです。
現在、人類の文明は、最終的に、人間自身を信頼して、人間の文明を維持してゆくか、それとも、人間以外の書物や機械を信頼して、ロボットやコンピューターに支配された機械の文明に変化してゆくか、ということの大きな分かれ道に立っている
つまり、長期的に見た場合、現在の人類の文明は、最終的に、人間自身を信頼して、人間の文明を維持してゆこうとするのか、それとも、人間以外の何らかの存在、特に人間が、最も大切なものとしている、愛や知恵の書かれた書物や機械を信頼して、それに委ねた、あるいは、それに支配された機械の文明を選ぶか、ということの、ちょうど大きな文明としての分かれ道に立っている、ということなのです。
追伸
もう少し分かりやすく言うと、霊的、もしくは、異次元的には、現在、みなさんが見ている、こうしたテレビやコンピューターのディスプレイや本や額のようなもの自身に、人間などの普通の生命以外の何らかの存在が乗り移ってきて、多くの人々に対するマインド・コントロールを行おうとしてくることがあるのです。
ですから、普段、みなさんが、何気なく目にしているような、そうした非常に便利で楽しいテレビやコンピューターや本や写真や絵(宗教の本尊なども)のようなものであっても、時折、冷静に考え直してみて、自分は、本当に神仏や人間を信じているのか、それとも、単なる物を崇拝しているだけなのか、ということは、心の中で問い直す必要があるのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2013年4月18日 9:09 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳