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昔の日本の神話について Part 13

④現代の神道の祭りや儀式に関しては、よく考えてみると本当の本音としては、「村八分にされたくない」とか、「何となく祟りが怖い」というような消極的な理由も多いようなので、現代のような民主主義国の市民としては、自分が楽しみや意義を感じられるものには、積極的に参加し、そうでないものには、断固として参加しないというような、しっかりとした分別と判断を行う姿勢を持つことが、とても重要なのではないか

 第四には、これも非常に問題が多いのですが、神道のような伝統的な宗教儀式というものをよくよく冷静に見てみると、「それって、要するに誰かの魂を、どこかに閉じ込めようとしているのではないですか?」とか、「その払った穢れは、いったい、どこの誰が処理するんですか?」(これは今日的な目で見た場合、自然の浄化力に頼った環境汚染とあまり違いがありません)とか、「そんなに強く念力を込めて、人の名前を呼ぶということは、要するに相手を霊的に縛って、何か無理やり変なことでもやらせようとしているんじゃないですか?」とか、「いつもはみんな、とても楽しそうに過ごしているのに、その祭りや儀式をやる時だけ、みんな暗い顔でうつむいて、何か我慢でもしているみたいになるなんて、本当は神様を讃えているんじゃなくて、何か祟りが怖くてやってるだけなんじゃないですか?」とか、「その大切そうに祭ってあるものって、元々は昔昔のその昔、日本が、まだ原始部族だった頃に隣の国からもらった、単なる昔の高価な貴金属やハイテク製品に過ぎないんじゃないですか?」と聞きたくなるような話が非常に多いのではないか、ということなのです。

 つまり今日の神道の儀式というものを、よくよく冷静に客観的に見てみると、「別に伝統やしきたりがないなら、誰がやるもんか!」とか、「なんかやらないと、みんなから村八分にされそうだし、怖い祟りがありそうだから仕方ないからやるか」というような話が、結構多いのではないか、ということなのです。

 こうした点から考えてみるに、「とにかく、昔からのこの地域の伝統やしきたりだから・・・」とか、「いつも、みんながやっているから・・・」というような消極的な理由からではなく、今日のような民主主義の国の市民としては、「これは楽しそうだし、やりがいがあるので、自分の意思として、ぜひやってみたい!」とか、あるいは、その反対に「これはつまらなさそうだし、自分としては、あまり意義を感じられないからやりたくない」などというように、もう少し現代人としての自分自身の明確な意思に基づいた分別と判断を行ってゆくことが、とても大切なのではないか、というように私は率直に感じております。

 昔の日本の神話については、だいたい以上のようなことが言えるのではないか、というように私は考えております(意外と長くなりました。とりあえず、おしまいです・・・)。

 

 参考、「鏡」崇拝の問題点について

 

Cecye(セスィエ)

2012年4月13日 9:05 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宇宙文明、古代文明 / 宗教、道徳 / 歴史 / 社会、文化 / 神道



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