今回は、現代の日本では、かなり微妙なデリケートな問題になっている、「日の丸」と「君が代」について、少しだけ考えてみたいと思います。
まず第一には、これは、現在の日本のように、国民の政治参加意識の低い国では、まだ、あまり馴染みの薄い考え方になるかもしれないのですが、基本的に、その国や地域の、何かシンボルとなるような標語やマークや歌や建物のようなものというのは、できるだけ、多くの人々が、直接、参加するような形で、あちこちで議論したり、投票したりしながら、その国や地域の人々自身が決めてゆくものなのではないか、ということなのです。
こうした観点から見る限り、現在の日本の国旗や国歌に関しては、確かに、日本の近代という時代において、古代から連綿と続いてきた神道や天皇制が、国民を一つにまとめてゆくために、非常に大きな役割を果たした、というのは、まぎれもない事実であるのですが、ただ、そうした神道や天皇制も、昭和の時代に入ると、かなり軍事覇権的な帝国主義や、大戦争や国民動員のための強力な思想洗脳や、それから、その後の侵略戦争や、その最終的な結果としての、まるで世界的な悪者となるような形での大敗戦の直接の原因となってしまったような経緯もあるので、客観的に見る限り、功罪何とも言えないようなところがあるのではないか、と思われます。
ですから、はっきり言うと、特に国家神道や天皇制に関しては、日本の近現代の歴史の中では、良かったことと、悪かったことが、両方折半していて、今日でも、多くの人々の中で、議論が、かなり明確に分かれてしまっているようなところがあるので、私は、現時点での日本のシンボルとなる、国旗や国歌に関しては、「日の丸」、「君が代」というのは、それほど、ふさわしいとは言えないのではないか、というように、率直に感じております。
第二には、これは、あまりはっきり言う人が少ない話なのかもしれないのですが、現在の国旗や国歌を、正式なものとして、制定するような法律を作った時期が、1999年の日本の政治が、かなりごちゃごちゃと荒れていて、多くの国民が、それほど内閣を信頼しているとは言えないような状況で定められたような経緯がある、ということです。
それゆえ、私は、こうした、政治的に、かなり、ごちゃごちゃしていて、その上、大多数の国民としては、はっきり言うと、何が何だか、よく分からないような経緯で、いつの間にか、パッと盗み打ちするような形で決められた国旗や国歌というのは、民主主義国の国旗や国歌のあり方としては、かなり疑問なのではないか、と感じております。
※逆に言うと、多くの国民が、みんなで選んだ、ものすごく信任されているような、人望の厚い政治家達が中心になって、「こんな国旗で、こんな国歌は、どうでしょうか?」、と国民に問いかけて、その上で、かなり多くの国民が、その政治決定に、直接参加するような形で定められた、国旗や国歌であれば、もう少し良かったのではないか、と思われます(普通、あんなに政治が、ごちゃごちゃしているような状況下では、そんな法律を、どさくさに通したりしないのではないでしょうか?)。
Cecye(セスィエ)