原子爆弾の話の続きなのですが、内容が、かなり政治的な話になってくるので、ここからタイトルは変更しました。
戦後の普通の日本人の感覚として、戦前から戦中にかけての時代が、何となく、かなりごちゃごちゃして、どす黒く感じられるのは、その辺りの時代の日本の政治家(軍人)の政治責任について、かなり誤摩化して説明されているからなのではないか
そうすると、長期的には原爆や水爆といった核兵器について、いったいどのように考えてゆけばいいのかというと、長期的には段階的に削減し、それから、できれば全世界的な融和基調の中で、そのうち全面廃止にしてゆくような流れになってゆくことが望ましいのですが、なぜ、ここまで普通の日本の教育やマスコミの論調とは非常に異なる、かなり冷静なドラスティックな「核兵器」に関する見方を長々と述べてきたのかというと、これは多くの人々が、実際に体験したことなのではないかと思われることなのですが、日本の歴史を学んでいると、江戸時代から明治時代にかけては、わりとシンプルに素直に理解してゆけるようなところがあるのですが、ところが大正時代を経て昭和前半の頃になると、何となくものすごくごちゃごちゃして、どす暗く感じられるようになり、それから、そうした戦前戦中を経た後の戦後の辺りの時代からでないと、学んでも学んでも、何だかよく分からなくなってくるようなところがあるからなのです。
私は、歴史の見方に関しては、これまで何回か述べてきたので、ある程度お分かりの方もおられるかもしれないのですが、単純に歴史を調べていて、ある一定の範囲の時代だけ、何だかものすごくごちゃごちゃして、どす黒く感じられるということは、私は、その時代に対する多くの人々の歴史に対する物の見方が、かなりおかしくなってしまっているというか、政府やマスコミが公式に発表しているような歴史観には、おそらく何らかの意図の下に若干(じゃっかん)、かなりねじ曲げられたものがあるのではないかというように感じるのです。
そこで、これは普通の日本の一般的な歴史観とは若干、かなり異なる物の見方になってしまうのですが、なぜ、そのような形で昭和の一時代だけ、何となく非常にごちゃごちゃして、暗雲立ちこめるような感じに見えるのかということについて、少しだけ述べてみたいと思います。
これは専門書ではないので、多少、はしょった形で要点を四つだけ述べます。
①連合軍の統治下の日本では、占領後の国内の混乱を最小限に押さえるために、「天皇制は温存するけれども、その政治権力に関しては、ほぼすべて取り上げて、国民の選んだ政治家に任せる」というような民主主義体制の構築が目指されたのだが、その代償として、以後の日本では、多くの人々が教育やマスコミの影響で、政治家の政治責任のあり方や政治的な感覚に関して、多少混乱してしまった感がある
まず第一には、これは考えてみれば、明確なことなのですが、連合軍が日本を占領した後、それ以前の民間人も含む日本軍のものすごい抵抗に、本音を言うとかなり怖れをなしていたようなところがあったので、占領後、いかに速やかに日本軍を完全に非武装化して、さらにその後、内乱状態にならないようにするかということに、ものすごく神経を使ったのではないかということが推定されるのですが、その際に彼らの考えた、ちょっとしたトリックのような概念があって、それが現代日本の骨組みになっている「日本国憲法」的な概念による国家統治だったのではないかということなのです。
それでは、その「日本国憲法」的な統治概念というのは、いったいどのようなものであったのかというと、連合国の占領後、後々まで、いろいろな形で内乱や分離運動が起きづらいように天皇制の形だけは、しっかり残すようにするけれども、「大日本帝国憲法」のように天皇にあまりに強大な権限が集まらないようにして、当時のわりと最新の民主主義の概念、つまり一人一人の国民が主権を持つとか、国民の選んだ議員が内閣を組織して、政治を行うとか、立法権や司法権に関しても、それぞれ、なるべく独立させるとか、原則、国民の自由権と平等権を認めるなどというような民主制の国にして、その上、そう簡単には憲法の変更なんてできないように憲法改正に関しては、かなり厳しい条件をつけたということと、それから、その後も長い期間に渡って、アメリカ軍が駐留するような国防形式にして、言ってみれば、間接的な形で日本の政治に対して、かなり強い影響力を残すようにするけれども、その代わり多くの日本人は、それまで非常に長い期間に渡って(幕末以来)、ものすごく負担に感じていた防衛上の恐怖や責任というものを、実質的にあまり強く感じなくても済むようにしたということです。
そうすると、これは政治上の譲歩であるとしか全く言いようがないのですが、連合軍としては、天皇制をそのまま存続させる以上、職業軍人に対しては、かなり容赦のない軍事裁判を行ったにも関わらず、当時の天皇、「裕仁(ヒロヒト)」(また他の皇室関係者に関しても)に対しては、原則、何の政治上、軍事上の罪も問わないようにしたということと、それから以後の日本政府の公式見解も、それを言うと戦後の日本政府のあり方にも、またアメリカを初めとする国連の主要国にも、いろいろ角が立って面倒なことから、「それは当然のことであった」というような主張で塗り固めることにしていったということなのです。
私は、別に当時の天皇に対して、ものすごい厳しい裁判をするべきだったと言っているわけではないのですが(もし、そうした裁判が政治的なものではなく、真実と正義の追求のためのものであるなら、しっかりそうすべきだったのでしょうが・・・)、ただ多くの日本人には、以後、政治上、思想上の大きな欠落ができてしまったということです。
それは、いったい何なのかというと、結局、政治の責任にしても軍事上の責任にしても、「いったい、いつ誰が、どこでどんな決断をした結果、どういうことが起きたのか」ということを全く明らかにしないで、それが何が何だか訳の分からない状態で大混乱しているような複雑怪奇な長い話を教えられてしまうと、結局、それを学んだ側の人間としては、「それでは、再びそうした悲惨な状況を避けるためには、いったいどうすればよいのか」とか、「多くの国民としては、いったいどのような考え方のもとに、いったいどのような指導者を選んで、いったいどのような政治をやってもらうのが一番良いのか」ということが、いくら政治家や役人の話を聞いても、また、いくらマスコミの記事を読んでも、何が何だかよく分からなくなってしまうようなところがあるのです。
ですから、これは私の素朴な感想なのですが、要するに昭和の一時期の時代が、どうして、いまだにあんなにごちゃごちゃして、どす暗く感じられるのかというと、それは歴史を学ぶ上でのシンプルな原則、つまり「誰が何をした結果、こうなった」とか、「それが良かった理由は、こうだったので、国民の考え方の基準としては、こうした考え方をとった方がよいと思われる」とか、その反対に「それが悪かった理由は、こうだったと思われるので、国民の考え方の基準としては、こうした考え方をとる方が良いと思われる」というような政治決定における「原因」と「結果」の因果関係が、何となく、うやむやにされて、ごまかされた、言ってみれば、虚偽に粉飾された近代史を学ばされたからなのではないかということなのです。
※つまり日本の公式の歴史に関する見解では(つまり政府や教科書やマスコミの言っている見解のこと)、当時の天皇、「裕仁(ヒロヒト)」という人が、「いったい何を、いつどう決めた結果、どういうことが起きた」ということがほとんど何の説明もない状態だから、近代史を学ぶと、誰が何をしたのか全然分からなくなってきて、そのうち何が何だかよく分からなくなってくるようなところがあったのではないかということです(参考)。
※その結果、戦後の日本では、何か政治の問題が吹き出すと、すぐによく状況も明らかにせずに、「とにかく、あいつを止めさせればいいんだ!」とか、「あの人は、とんでもない悪人なんだ」とか、「クリーンな人間に変えれば、全部解決するんだ!」というような、あまり深く考えない単純至極な、その場的な解決策だけで満足してしまうようなマスコミの論調や国民世論になってしまいがちであったのではないかということです。
※世界史的には、あれだけの大敗戦にも関わらず、責任の追求を逃れて、その国の王制(日本の場合は天皇制)が残ったケースは極めて珍しいケースになるのですが、それは戦後の大混乱にも関わらず、今述べたような形でGHQが天皇制の存続を支持したことと、それまでの時代の戦争と違って、戦後、連合国側が、かなり熱心な人道的な支援を行ったからであると思われます。ですから、もしそうした連合国の支持や援助がなかった場合には、他の国の歴史と同じで、おそらく日本の天皇制も、戦後、国民の反対や、場合によっては、内戦や革命などでなくなっていったものと推定されます(つまり一部の人々が熱心に力説するような「天皇が立派だったから皇室が残った」というような理由は、歴史的な事実とはかなり異なるということです)。
Cecye(セスィエ)