3、長い年月のうちに、多くの宗教における「神仏」の性質や能力や役割というのは、元々のオリジナルの「神仏」の意思や能力や役割を遥かに越えて、得体の知れない、訳の分からない、ほぼ実現不可能なものに変化してゆきがちであった
第三には、これは、さらに問題の多い話になってきてしまうのですが、そうすると、結局、そうした、一部の偉い人々の利益や、多くの人々の願いやニーズに基づいて、運営されている宗教における、神仏の個性や能力や役割というのは、いったい、どのようなものになってゆくのか、というと、これは、大変、難しい、ややこしい問題も、たくさん含んでいるのですが、要約すると、だいたい、次のような七つのことが言えます。
①難しいことや、どうなるか、よく分からないようなことは、何でも、片っ端から、神仏にお願いしてゆくような、「何でも願い事叶え教」や「無理難題、何でも神様頼み教」のような宗教形態
まず第一には、これは、日本人には、非常に身近な、分かりやすい話になってくるのですが、こうした宗教のあり方であると、結局、多くの人々の素朴な感覚としては、「自分で、一生懸命、努力しても、どうなるか、よく分からないようなことは、何でも、神様に、お願いしちゃおう」、とか、「とにかく、普通の方法では、どうにもならないような難しいことや面倒くさいことは、何でも、仏様におすがりしちゃおう」、ということになって、とにかく、「偉い神様がいる」、とか、「偉い仏様が、やってこられる」、と言われるような場所に行くと、パンパンと手を叩いたり、一生懸命、拝んだりしては、「仏様、○○の願いが、どうか叶いますように!」、とか、「神様、○○さんとの恋が、どうか成就しますように!」、などと祈っては、お布施をしたり、ちょっとした儀式をしたり、お守りをもらったりするような信仰形式、つまり、単刀直入に言うと、「何でも願い事叶え教」、とか、「無理難題、何でも神様頼み教」、のような宗教形式になってしまうことが多かった、ということです。
※別の所にも書きましたが、もし、そこに、本当の神様がいたら、「それだったら、まずは近く塾や予備校に行きなさい」、とか、「その問題は、今のあなたの知性や経験では難しすぎるから、できるだけ早く、できるだけ、しっかりした、しかるべき人に相談した方が良いのでは・・・」、とか、「そんなに、その人のことが好きなら、とりあえず、告白してみたら♡♡♡・・・」、というようなことになるのでしょうが、多くの人々の様子を見ていると、あまり、そうした自分の客観視ができないケースが多いようです。
②罪の許しや、汚れ穢れの除去をお願いするような「どんな罪でも無限に許し教」や「何でも汚れ穢れ払い教」のような宗教形態
第二には、これも、今日、世界中で、非常に多い宗教形態になるのですが、「とにかく、神様を信じるので、私の罪を許してください」、とか、「神のものすごいパワーで、私の罪や穢(けが)れを、すべて取り除いてください」、というような形の、言ってみれば、「どんな罪でも無限に許し教」、とか、「何でも汚れ穢れ払い教」のような宗教形態があります。
ただ、これは、前にも述べたように、はっきり言うと、もし、その当の神仏本人が、その人の目の前にいたら、とてもではないが、「そんなこと、頼めないのではないか」、と思われるような罪の許しや汚れ穢れの除去を頼んでいることが、非常に多いように思われるので、これは、大変、現実的な指摘で申し訳ないのですが、おそらく、そうした形で、神仏に対して、地上の人間の都合で、罪の許しや汚れ穢れの除去を、一方的に頼むような宗教の霊的な実態というのは、ほぼ間違いなく、霊的に見た場合には、その当の神仏の意思や能力や役割を、遥かに越えたものになってしまっていることが多いのではないか、というように、私は、率直に感じております。
Cecye(セスィエ)
2012年7月29日 9:02 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳