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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 5

5、霊的に見ると、現在の宗教形式における「葬式」や「供養」は、あまり意味がないようなところが多いので、それよりかは、できれば、生前の段階から、できるだけ正確な「霊界」の知識を得ておくことと、自分の心に、できるだけ正直に、後悔のない人生を送ることの方が、遥かに重要である

 それでは、結局、霊的宇宙的に見た場合、葬式に関しては、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、これも、現在の地球の宗教的な常識では、かなり変わった物の見方になってしまうのですが、大まかに要約すると、以下のような感じになります。

 まず第一には、これは、考えてみれば、全く当然の話なのですが、現在の時点では、かなり信頼の置けそうな一部の霊能者の話や、それから、臨死体験の報告から、冷静に考えてみる限り、この地上の世界において、肉体的な死を迎えて、「霊」としての生活に移った人々の感覚としては、「地上の世界での葬式や供養を、ものすごく、ありがたがっていた」、とか、「宗教家の儀式は、本当に最高で、それで、いっぺんに成仏してしまった」、というような話は、残念ながら、ほとんど聞いたことがないので、霊的な実態としては、誰かが亡くなった後に、宗教的な葬式や供養というものをやっても、実際の霊的な効果というのは、ほとんどないのではないか、ということです。

 第二には、これも考えてみれば、非常に不思議な話になるのですが、亡くなって、霊としての生活に入った人にとっては、初めてのことばかりなので、多少、ドギマギするような状況になるのは、ある程度、当然としても、基本的に、その人自身の感想としては、「あれ、さっきまで、大怪我で体が痛くて、大変だったのに、今は、体が痛くもないし、ものすごく軽いや」、とか、「自分が思った場所に、パッと移動できるんだ」、とか、「こちらからは、地上の世界の人々の様子が、はっきり分かるのに、地上の世界の人々からは、自分のことが、全然、見えないなんて、不思議だな」、などという具合に、言ってみれば、霊界や、霊との生活と言っても、ただの他人事の霊界物の話ではなくて、もう実際の実体験になってしまっているのです。

 ところが、残念ながら、現在の地上の世界の宗教では、そうした霊界の実態や、霊としての日常体験というものを、あまりよく理解していないことが多いようなので、お坊さんが、「南無(なむ)○○・・・・」、と、非常に尊いと言われるお経を読んだとしても、これは、客観的な風景を想像してもらうと分かりやすいのですが、「南無(なむ)○○・・・」、と、お坊さんが、お経を、一生懸命、読む側で、すでに亡くなって、霊となった人は、「あれは、どういう意味なのかな?」、とか、「仏様や神様は、どちらから来るんですか?」、とか、「みなさんは、心配しているけど、私は、この通り、死んでも、ピンピンしていますよ」、とか、「誰か一人でいいから、私の気持ちが伝わるといいのにな〜」、とか、「もし、みんなに、自分が見えたら、最後のお礼と、お別れを言うのに・・・」、などというように、結構、冷静に、あれこれ考えていることが、多いようなのです。

※その点、霊となった人にとっては、キリスト教の神父(牧師)の話の方が、普通の言葉なので、分かりやすいようなのですが、結局、「霊界」と言われる所に行くと、生前、聞いていた話と違うことが多いようなので、結構、びっくりすることが多いようです。

 そうすると、いったい、どういうことが言えるのか、というと、これは、霊的には、かなりはっきりしていることなのですが、できれば、多くの人々が、生前において、やっておくべきことは、ある程度、趣味程度でもよいから、何らかの宗教に入信するというよりかは、あまりごちゃごちゃしていない、ある程度、理知的で、すっきりとした、霊界の様子や、霊としての生活についての簡単な知識というものを、あらかじめ、知っておくべきことだった、ということと、それから、もう一つは、後から、あまり心残りになることがないように、できれば、若いうちから、「自分が、これだけは、どうしても、やってみたい」、と思ったことは、たとえ、少々、失敗しても構わないから、とにかく、一度はやってみる、ということなのではないか、ということなのです。

 それというのは、これは、霊界の事情が、ある程度、分かるようになると、誰もが、非常に痛感するようになることなのですが、とにもかくにも、多くの人々が、亡くなった後に、困ったり、悩んだりしている内容のベスト3に上げられるようなことが、今述べたようなこと、つまり、自分としては、死ぬ前は、「死後の世界なんて、全然、訳分からない」、とか、「そもそも、死後の世界なんて、ある訳ないじゃない」、などと、かなり馬鹿にしていたにも関わらず、いざ、自分が亡くなってみると、霊界や、霊としての生活と言っても、はっきり言って、地上の世界と、大して変わらないくらい、かなりはっきりしたリアリティーと、それから、秩序正しさと、統一された世界観が支配している世界であった、ということに気付くので、その時、多くの人々が、つくづく考えるのは、「なぜ、自分は、地上の世界にいた時に、こんな簡単な真実について、何も知らなかったのだろうか?」、というような疑問や嘆きであることが多いようなのです。

 それと、もう一つ、多くの人々が、よくつぶやく嘆きや後悔の内容は、自分としては、常に、一生懸命、よく学び、よく働き、よく生きてきたつもりであったが、いざ、死んだ後に考えてみると、「なぜ、自分は、あの一番、言いたかったことや、やりたかったことを、先延ばしにして、結局、何も言わず、何もしなかったのかな?」、とか、「本当は、ちょっと、エイッっと、一発奮起すれば、簡単にできたのに、なんで、自分は、それをしなかったのかな?」、などというような嘆きや後悔というのが、意外と多いものなのです。

 その結果、そうした嘆きや後悔の念を強く抱えた人というのは、その後、霊界に還っても、わりと短期間のうちに、何らかの機会を得ると、再び、地上の世界に生まれ変わってくることになるのですが、これも、よほど心の奥で強く望んだことでもない限りは、再び、地上の世界のいろいろな誘惑や障害に負けてしまい、そうした人生が終わると、なぜか、また、同じような嘆きや後悔の念を持つことも、結構、多かったりするものなのです。

 それゆえ、私は、誰かが亡くなった後に、盛大な葬式や供養をやるくらいなら、できれば、それ以前に、地上の世界で生きているうちから、これは、別に何らかの宗教に属さなくてはならない、というような意味では、全くないのですが、霊界や霊の生活について、書かれた、わりと信頼の置けそうな本を、最低でも、数冊程度は、読んで、そうした霊界の予備知識を得ておくと共に、それから、もし、突然、地上の生命が終わったとしても、決して、後悔することがないように、「これだけは、自分がやりたい」、とか、「一度でいいから、やってみたかった」、ということに関しては、できるだけ積極的にトライしてみることが、とても大切なのではないか、というように、率直に感じております。

 さて、そうすると、現在、営まれている葬式の未来像というのは、いったい、どのようなものになってゆくのか、というと、もし、多くの人々が、わりと簡単に、亡くなった人とも、普通にコミュニケーションできるような状況になっているのであれば、たとえ、誰かが亡くなったとしても、エンエンと大きな声で泣いて、悲しむ必要は、あまりなくなってくるでしょうし、それから、あまり格式ばった儀式をやっても仕方ない、ということになってくるので、おそらく、現在のような形で、スピリチュアルな知識が、自然と普及していった暁には、せいぜい、やっても、スピリチュアル(霊的)な要素を持った、亡くなった人の「お別れパーティー」のような催しをする程度のものが、だんだん主流になってゆく、というような流れになってゆくのではないか、というように、素朴に考える次第です。

 

 

 追伸

 明日は、お休みです。

 

Cecye(セスィエ)

2012年8月5日 9:03 PM, Q&A  / スピリチュアリズム、霊界



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