4、創造主の意識に合わせるには、祈りや瞑想や思索によって、心の静寂さや、至福や、愛や感謝の精神状態を求めても良いし、武術やスポーツや、アートやダンスやヨガなどで、自然な肉体や精神の悦びを求めても良いし、それから密教やタントラのようにセックスによって、神仏との一体感や恍惚感を求めても良い
第四には、今度は、少し角度の違った話をしてみたいと思うのですが、この宇宙の創造主の意識とある程度、自分の意識を合わせられるようにするには、現在の地球の感覚だと、次のような大きく三つの方法があるということです(他にも、たくさんあるのですが、ここでは、三つだけ述べておきます)。
まず第一の方法は、古来から宗教で教えられているような、いわゆる、祈りや瞑想や思索によって、非常に静寂で精妙な意識になったり、あるいは、神仏の臨在を感じて、心からの至福や、愛や感謝の念を感じたりしている時には、そうした意識の持ち方自身は、わりと、この宇宙の創造主に通じやすいということが言えます。
第二には、これは、武術やスポーツや、アートやダンスやヨガのトレーニングをやったことのある人なら、ある程度わかるかもしれないのですが、そうしたトレーニングの中には、多少、厳しい内容が含まれていることも確かに事実なのですが、要は、途中で、わりと無心になって、自分の体が、自然に生き生きと動いている時や、もう楽しくて楽しくて、仕方がないような全身の感覚を感じている時や、それから、自分自身の生命のほとばしりというものを、自然と実感しているような時というのは、比較的、この宇宙の生命そのものである創造主の意識と近いということができます。
※ここで言う「武術」というのは、人を殺めたり、傷つけたりするためのものではなく、自分自身を成長させ、自分や他の人々を生かし、守るためのもののことです。
それから第三には、これは、密教やタントラの秘儀などで示されている内容になるのですが、セックスの中でも、肉体をいじめて、苦痛を課したり、精神的に歪んだ、汚さや気持ち悪さを追求するようなものではなく、いわゆる、ごくごく自然な形で、肉体や精神の悦びを表現し合うようなセックスの世界は、わりと創造主の悦びの世界に近いということが言えます。
こうした「神は悦びである」というような視点は、わりと東アジアの宗教だと、すっぽり抜け落ちてしまっているようなところがあるのですが、おそらく、今後は東アジアでも、そうした何となく無意識のうちに、自分や他の人々の幸福を否定したくなるような異常な潜在意識の働きは、だんだんと減ってゆき、わりと自然な形で、自分自身の悦びや、他の人々の悦びを受け入れられるような世界に変わってゆくのではないかと思われます。
このように「創造主の意識に合わせる」と言っても、祈りや瞑想や思索によって、心の静寂や、至福や、愛や感謝の精神状態を求めても良いし、武術やスポーツや、アートやダンスやヨガなどで、自然な肉体や精神の悦びを求めても良いし、それから、密教やタントラのようなセックスによる神仏との一体感や恍惚感を求めても良いなどというように、実際には、いろいろな方法があるので、単純に、これだけでいいとは、なかなか言えないようなところがあるということなのです。
Cecye(セスィエ)
2012年7月12日 9:03 PM, Q&A / スピリチュアリズム、霊界 / 仏教 / 宗教、道徳 / 瞑想