⑤現代のような民主主義の時代には、多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、芸術の分野、つまり、「何を美とし、何を醜とするか」、ということに関しては、できるだけ、国家は、口をはさまずに、多くの人々の自然なニーズや感性に任せて、自由に選んだり、その良し悪しを決めたりできるような、「多元論」的な考え方の方が、より望ましいようなところがある
第五には、これは、たいていの人は、あまり考えたことのないような話になるのではないか、と思われるのですが、実は、多くの人々の素朴な感覚とは、かなり違って、「一元論」や「二元論」的な考え方、つまり、いっけん、一部の「プロ」や「専門家」と呼ばれるような人々に、その良し悪しの判定を、完全に任せておいた方がよい、と思われるにも関わらず、実際には、「多元論」的な考え方、つまり、多くの人々の自然なニーズや感覚に基づいて、その良し悪しを選んだり、決めた方がよい、と思われる分野に、「芸術」や「美術」と呼ばれる分野があります。
霊的に見た場合、特に、その国や地域を代表するような「芸術」や「美術」の内容というのは、その国や地域の人々が、「いったい、何を美しいと感じ、いったい、何を醜いと感じるのか」、というような、多くの人々の美的感覚や感性に対して、かなり大きな影響力を持っているようなところがあるのですが、実は、そうした観点から見ると、特に、現在、一部の国々で行われているように、国家が、直接、あるいは、間接的な形で、あまりにも横から大介入して、「これが、国宝級の最高の美術品です」、とか、「これが、芸術祭で入賞した、偉大な作品です」、とか、「これが、芸術大学で選んだ、最高のアートです」、などと、あまりにも主導的な形で、その国の主な芸術の方向性を決めようとしていると、いつの間にか、多くの人々が、全く知らないうちに、一部の人々の好みや基準だけで選ばれた、一部の人々の地位や権威や、お金儲けのための、かなり閉鎖的で、独占的な形の「芸術界」のようなものが出来上がってきて、その国の芸術の分野を、実質的に支配するようになってゆくことがあるのです。
ですから、これは、前に「国語教育」について、述べたことと、基本的に、ほぼ一緒の内容になるのですが、特に、義務教育において、国家が、強く関わってよいのは、現代の世界において、「美しい」、とか、「優れている」、などと言われている芸術の単なる紹介や、あるいは、そうした、いろいろなアートのうち、それぞれの子供達が、自分の気に入ったものを、ある程度、好きなように学べるような機会を用意することだけに限られるべきなのであって、それ以上の内容、つまり、「これは、美しいが、これは、美しくない」、とか、「これは、優れているが、これは、ダメである」、とか、「これは、国家として、推奨するが、これは、推奨しない」、などというようなことは、犯罪の助長に関わるような、反社会的なものなどを除いて、原則、一切、関与してはいけないようなところがある、ということなのです。
それでは、そうした芸術の分野に対して、国家としては、いったい、どのように関わってゆけばよいのか、というと、それは、わりと単純で、次のような二つの内容になります。
①国家が、多くの人々に、優れた芸術作品に触れる機会を増やすような芸術の後援活動を行うことは、大いに奨励されるべきなのだが、本当は、一人一人が、「何を美しいと感じ、何を醜いと感じるか」、ということにまで、一々、細かく採点して、干渉するようなことは、犯罪の助長につながるような反社会的な内容を除いて、個人の自由権の侵害になるので、本当は、断じて、やってはいけないようなところがある
まず第一には、国家としては、多くの人々が、優れた芸術作品に触れる機会を、子供の頃から増やすような後援活動は、大いに推奨すべきなのですが、ただ、学校教育の立場としては、基本的には、普通の一般市民が、美術や音楽の教室に通うのと全く一緒で、一人一人の子供が、自分の好きなアートを学んだり、楽しんだりするような機会を、どんどん増やすことは、とても良いのですが、ただ、それ以上のこと、つまり、一人一人の子供が、「何を美とし、何を醜とするか」、ということに関しては、生徒が、自分で選んだわけでもないような、ただ一人の教師が、勝手に評価するようなことは、絶対にせずに、もっと単純に、それぞれの個人や、あるいは、多くの人々の間で、お互いに、「これは、素晴らしい」、とか、「これは、ちょっと・・・」、というような、自由な意見や考えに任せるべきなのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)