高度成長期の発展途上国の国々では、先進国の学問や科学技術や制度の導入に最適な「○×方式」の教育は、確かに最適なのかもしれないが、国家が、ある程度、物質的に豊かになってきたら、今度は、個人個人の個性や感性や創造性を尊重するような教育体制に改めないと、気がつくと、物質的には、経済大国なのだが、精神的には、ずっと不幸な貧乏国、というような状況になりやすいので、注意が必要である
まだ、それほど高度な先進国になっていないような、経済成長期の国々では、とりあえずは、より進んだ先進国の真似をして、「追いつけ、追い越せ」、とばかりに、それほど本心からの幸福感はなくても、そうした、「これは、先進国でやっているので、とにかく、同じようにできるようにすればいいが、これはやっていないので、何もしなくてもいいだろう」、とばかりに、先進国の後追い方式の、いわゆる、○×方式の教育でもって、いくらでも高度成長してゆけるようなところがあるので、それゆえ、そうした時期には、「昨年より給料が増えた、もっといい生活ができる」、「昨年より、国も企業も、より成長した。ものすごく達成感を感じる」、などというように、言ってみれば、本当の本心からの幸福感なんて、感じなくても、それなりの充実感や満足感は、十分、感じられるようなところがあるのです。
ところが、そうした高度成長期を過ぎて、そうした国々が、ある程度、経済的に豊かになってきたにも関わらず、いつまでも経っても、同じような教育方式をとっていると、どこかの段階から、「いくら物質的に豊かになっても、全然、幸福感なんて、感じられない」、とか、「数字や物が増えることだけでは、もう何の満足感も達成感も感じられない」、などということになって、物質的には、非常に豊かなのに、今一、幸福感の感じられないような、精神的な貧乏国になってしまうことがある、ということなのです。
ですから、実は、こうした、「物質的には、豊かなんだけど、精神的には、貧乏」、というような、非常にアンバランスな状態を脱するためには、その国が、経済的に、ある程度、豊かになってきたら、より進んだ学問や技術を、何でも片っ端から暗記させては、試験で、○×をつけるような詰め込み教育は、少しずつ減らしてゆき、一人一人の人間の個性や感性を尊重したり、あるいは、一人一人の人間が、より創造的に自由に考えたり、行動してゆけるような、より一段高い創造的な教育に変化させてゆくことが、とても大切になってくるのですが、ところが、国によっては、それは、そうした、それ以前の教育体制に依存している、たくさんの人々の事業の衰退や失業と大きく関わっているようなことがあるので、いつまで経っても、そうした教育体制の改革や改善に取り組まない結果、気がつくと、「国は、豊かになって、もう数十年は経っているんだけど、いまだに、精神的には、何か満ち足りない」、というような、物質的には、経済大国、精神的には、いまだに未熟な貧乏国の状態になりやすい、というような、非常に不幸な状況に陥りやすいようなのです。
Cecye(セスィエ)