3、他の宗教における古代の聖人の話とほぼ同じように、釈迦の話も創作的な要素が、かなり強いと思われるので、その結果、結局、仏教の歴史では、よく考えてみれば、みんな中身の異なる「最高の悟り」を看板に掲げるような新宗教が、次々と乱立してゆくことになった
第三には、これも、かなり不思議な話になるのですが、実は、仏教には、その起源自体の所に、かなり怪しいところがあるのです。
それというのは、これは仏教の歴史を調べてみるとよく分かるのですが、「どう考えてみても、当時の時代としては、移動が無理な場所に、何人も釈迦がいたことになっているのではないか」とか、あるいは、「どう考えてみても、こんな非殺生の宗教をやっている人が、軍事的英雄になれるわけないのではないか」というような話が結構多いということなのです。
ここでは紙面の関係で、あまり深く触れられないのですが、要するに結論だけ言うと、イエスのところで述べたこととほぼ同じように、この仏教の釈迦の話というのは、おそらく、元々、古代のインドの辺りで活躍したと思われる昔の聖者の話を、実際の話とは、かなり違った全く別の話にすり替え、脚色して作り上げた、一種の作り話が元だったのではないか、ということなのです。
現時点で、これは明らかに元々の釈迦の話と違うのではないか、と思われる点についてあげると、まず第一には、釈迦が元々、王族の王子だったのに出家したということと、第二には、彼は、肉欲の全面否定を行ったということと、それから第三には、彼が、非常にたくさんの、いっけん、かなり異なる教えを説いたということになります。
その理由としては、まず第一の点については、これは当時のインドの辺りの時代状況が分からないと、ちょっとよく分かりづらいのですが、もし釈迦が、その時代に王侯貴族の身分で生まれた場合には、当時のインドには、そうした王族や貴族の身分のものなら、わりと簡単に、そこそこの幸福が得られる方法がたくさんあったので、そもそも最初から、そんな苦行や修行は必要なかったのではないか(おそらく、タイムテロの影響だと思われるのですが、残念ながら現代には、ほとんど伝わっていないように思われます)ということと、第二の点については、そんな肉欲の全面否定をしたら、その反動で、かえって欲に縛られて、この世的に不幸になるだけでなく、死後の世界でも、自分の魂に蓄積された欲の影響で、高い霊界に行くことが不可能になってしまうのではないか、ということと、それから第三の点については、これは現代人には、はっきり分かるのですが、どう考えてみても、大乗仏教のたくさんの経典は、一応、釈迦や、何らかの仏や菩薩の名義になってるだけで、実際には、後の時代に後から後から、その時代や地域の事情やニーズに基づいて、大勢の人々が一生懸命考えて、それが良いか悪いかというのはともかくとして、まるで本物の仏や菩薩が伝えたかのように、それらしく作った偽経が、ほとんどなのではないか、ということです。
そうすると、とにかく仏教の釈迦の場合、死人に口なしで、後から後から彼の名義で、いろいろな人物が、いろいろな理由で、いろいろなニーズに基づく宗教経典を、山ほどたくさん作られた歴史上の代表人物と言ってよいような人物であるということになるのですが、この後が問題で、これは、よくよく冷静に考え直してみないとよく分かりづらいのですが、現代の仏教を、あの宗教、この宗教と見てゆくと、どこもかしこも「偉大な悟り」、「最高の悟り」、「究極の悟り」・・・、などと言っていることが多いのですが、ところが、よく考えてみると、肝心要の「釈迦自身が悟った」とされている「悟り」とは、みんな違うものを「悟り」と言っているのではないか、ということなのです。
ですから、こうした観点から考えてみると、結局、仏教の一番の売りである「悟り」というのは、現代の感覚で言うと、「超すごい!」とか、「最高すごい!」とか、「超絶すごい!」というような宗教的な売り文句の最高表現になっているだけで、結局、どの宗教も、どの宗教も、全く異なる「悟り」と呼ばれる宗教体験を売り物にしているようなところがあるので、その点で、こうした仏教の「悟り」という言葉は、よく考えてみると、かなり曖昧、というか、もっとはっきり言うと、ちょっと意味不明なところがあったということなのです。
※これは、「原始仏教の悟りは、最高なのだが、それ以降の仏教は、全部ダメだ」というような意味ではありません。原始仏教の悟りにも、長所もあれば、短所もあるはずだし、またそれ以降の、特に大乗仏教のいろいろな悟りにも、長所もあれば、短所もあるはずなので、それぞれの仏教について、もう少し冷静に調べたり、考え直してみた方がよいのではないか、というような主張になります。
※現在の日本にも、時々、釈迦の生まれ変わりを主張している方がいるようなのですが、元々の仏教における釈迦の悟りは、「解脱(げだつ)による迷いの輪廻からの離脱であった」と伝えられているので、当然のことですが、もし、現代に釈迦の生まれ変わりのような人がいたとしても、かつて自分自身が、徹底的に否定していた解脱した後の再度の生まれ変わりを、ことさら大きく主張するとは、ちょっと普通、常識的に考えて、全くあり得ないので、おそらく、そうした釈迦の生まれ変わりを主張するような人が、仏陀(仏)、もしくは、創造主や神のような存在である可能性は、ほぼゼロなのではないか、と思われます。
※「創造主」とは、現在の宇宙や、太陽や地球や、人間を初めとする動植物といった生命を創り、見守っている究極の「神」のような存在のことなので、当然のことながら、単に「何らかの気づきを得た」とか、「目覚めを得た」というような意味の「悟り」を開いた「仏陀(仏)」とは、全く違った存在であることになります。ただし、大乗仏教では、この宇宙の根本の光の存在のことも、「仏」という名称で呼んでいるようなので、その場合には、「仏」と言っても、悟りを開いた「仏」という意味ではなく、ほぼ「神」に近い存在の意味になるようです。
Cecye(セスィエ)