②多くの人々が、あまりにも強く、神仏に関する特定のイメージや信念を持ちすぎると、霊界に、そうした多くの信者のイメージや信念そっくりの神仏のキャラクター存在が創造されて、そうした神仏のキャラクター存在が、さも本物の神仏であるかのごとく、振る舞うようになることがあるので、大変、注意が必要である
第二には、これも、霊界では、大変な混乱をもたらしている内容になるのですが、実は、こうした形で、地上の世界の人々が、あまりにも強く、神仏に関する一定のイメージや信念というものを持ちすぎると、それによって、霊界のあまり高いとは言えないような世界、つまり、四次元以下の幽界と呼ばれる世界には、そうした宗教で説かれた、神仏そっくりのキャラクター存在達が、多くの人々の信念によって、半自動的に、どんどん作り出されてゆき、そして、その宗教において、多くの人々が期待している通りの発言や行動を行い始めるようになる、というような、非常に不思議な事態になってゆくことがあるのです。
つまり、もう少し客観的に説明すると、地上の世界において、あまりにも強い信念でもって、ある一定の神仏のイメージや固定概念を持つようになると、これは、この地上の世界では、なかなか、よく分かりづらいのですが、幽界には、その当の神仏とは、全く関係なく、また、当の神仏の意思とも全く関係ない形で、地上の世界において、多くの人々が信じた通りの発言や行動をする、言ってみれば、神仏キャラクター存在のようなものが、あちこちに出現して、多くの人々に対して、さも自分が、本物の神仏であるかのごとく振る舞いながら、ああだこうだと、宗教的な、それらしい説法をしたり、霊的な指導のようなことをするような事態になってしまうことがある、ということなのです。
それゆえ、いにしえの霊的な指導者達は、それこそ、本当に、口を酸っぱくして、「絶対に、自分を神仏のように信仰するな!」、とか、「絶対に、自分の像を作って、拝むな!」、というようなことを、何度も何度も、弟子達に言い聞かせていた、ということであったのですが、ところが、そうした霊的な指導者が、亡くなって、しばらく経つと、宗教というのは、ある程度の規模になると、必ず、国家の為政者の介入や、いろいろな横やりが入ってくるものなので、残念ながら、どこかの段階で、そうした最初のポリシーが崩れてしまうと、気がつくと、あっちでも、こっちでも、そうした霊的な指導者の絵や像が、まるで神仏そのもののように、寺院の中心に安置されるようになったり、多くの人々が、そうした絵や像を、まるで神仏そのもののように拝むような状況に変化してゆきがちであった、ということなのです。
それでは、そうした、霊的なマスターのような人の絵や像を飾って、拝むことは、本当に危険なのか、というと、この詳しい説明は、また別の機会に譲りたいと思うのですが、これは、おそらく、地上の世界の人間独特の感覚になるのでしょうが、人間というのは、弱いもので、何かあった時に、やはり、目に見えたり、耳で聞くことのできるような自分の心の拠り所のようなものがあると、非常に落ち着くようなところがあるので、そうした霊的な指導者の言いつけが、よほど、きつく、しっかりと残っているようなケースを除いて、この地球上の宗教では、どの宗教でも、しばらく経つと、そうした霊的な指導者を、まるで神仏そのもののように祭り上げるような形態の宗教になってゆきがちであったようなのです。
ただ、これは、霊的には、ほぼ確実に言えることなのですが、どんな宗教であっても、あまりにも強い信念で、そうした神仏のことをイメージし続けたり、あるいは、念じ続けるようなことをしていると、先ほど述べたように、霊的には、その当の信者の人達から見ると、とんでもない災難のようなものに巻き込まれてしまうことがあるので、非常に注意が必要である、ということです。
Cecye(セスィエ)
2012年1月13日 9:03 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観