「貧困を撲滅し、豊かな物質生活を実現する」というような一昔前の経済学の目標は、現代の先進国では、ほぼ完全に実現されてしまっているので、現代という時代は、「自然環境との共生」や「高度幸福社会の実現」や「最も合理的で完全な社会全体のニーズの充足」というような方向性の新たな経済学の時代に移行する最中の時代に置かれている
これもよく考えると非常に不思議な話であるのですが、現在までの地球の社会では、大して何も生産的なことをしているわけでもないのに非常に強い権力を持っていたり、非常に高い地位や身分になっていたり、あるいは、かなり高給取りのリッチな生活をしているような人々が結構な人数いたのですが、私は、こんなにものすごい人数、それほど一生懸命働かなくても、そこそこリッチな生活ができるのであれば、そうした富を還元して、もっと多くの人々が、そんなにあくせく働かなくても、そこそこ豊かな生活が出来るような社会にしてしまった方が、ずっと良いのではないか、というような率直な感想を持っております。
これはいわゆる、その社会において偏った形で集中している「富の再分配」の話であるのですが、ただ、ここで大切なのは、現在のように経済や科学の発達した時代においては、もう昔のように、ほんの一握りの人々が富を独占しても、それほど豊かで楽しい生活ができるわけではない(現代の先進国では、昔の王侯貴族程度の生活なら、普通の一般市民がみんな十分享受しています)ということと、それと、そうした富を収奪された多くの人々が日々の糧に困るほど、それほど生活に困窮しているわけでもないということなのです。
ですから現代という時代は、もう昔のような「貧困をなくす」とか、「より豊かな物質生活を実現する」というような経済学の目標は、すでに完全に達成されてしまっており、そうした経済学以降の次の経済学の時代、つまり「いかにして自然環境に負荷をかけずに、長期的かつ持続的な物質的繁栄を享受するか」とか、「経済的豊かさのみならず、いかにして多くの人々が最も幸せに暮らせるような理想社会を実現するか」とか、「いかにして最小限の労力で、最も付加価値の高い魅力的な商品やサービスが、社会の隅々まで満たされるようにするか」というようなことが目標の新たな経済学の時代に移行しつつある時代に当たっているのではないか、ということなのです。
ですから、こうした観点から考えてみる限り、おそらく一昔前の地球を支配していたような「一部の特権階級のような人々が、多くの人々が日々汗水垂らして働いた富をどんどん収奪して、贅沢三昧の生活をする」というような社会の構造というのは、そうした形で支配している側にとっても、あるいは、支配されている側にとっても、あまり大きな満足や幸福をもたらさない社会システムになりつつあるのではないか、ということなのです。
そうすると、ちょうど今頃の時代は、そうした新しい経済学の方向性によって、昔の支配階級だった人々であっても、それほど大きな富の収奪を行わなくても、そこそこ満足できるような豊かで幸福な生活ができるようになってゆき、また昔は、非支配階級だった大多数の人々であっても、昔に比べると、かなり豊かで幸福な生活ができるようになってゆく途中経過の時代になっているのではないか、というように考えることもできるので、おそらく、こうした時代の変化の先には、あらゆる意味で多くの人々が、自分が最も価値を感じ、最も満足や幸福感を得られることを、多くの人々の間で、かなり親密な連携や協力関係を持ちながら最大限に享受してゆけるような、「高度経済社会」から「高度幸福社会」を目指すような方向性に社会全体の方向性が、がらりと大きく変わってゆくような方向性になってゆくのではないか、というような感想を私は持っております。
Cecye(セスィエ)