ここまで、よく宗教が否定しているこの世の要素と、それから、よく宗教が提示してくる天国と地獄の要素について、説明してきたのですが、それでは、こうした前提の上で宗教のスタイルとしては、いったい、どのようなタイプがあり得るのか、というと、大体、代表的なものとしては、次のような四つのスタイルがあげられます。
①この世での生活が、あまりにも辛く苦しい場合には、たいていの人々は、この世での幸福や成功の実現なんて、最初から完全に諦めてしまい、死後のあの世の世界における、偉大な神仏の加護や救済による天国や極楽浄土での幸福な生活を、生前の段階から、ずっと夢見て、生活するようになりがちであった
まず第一には、先ほどの例で言うと、これは、とにもかくにも、この地上の世界が、戦乱や犯罪などで荒れていたり、飢饉や経済破綻などで、ものすごく貧しいケースの場合になるのですが、こうした形で多くの人々が、ちょっと普通に考えを巡らしてみる限り、「これは、どう考えてみても自分も家族も一生、不幸な大変な人生を送るとしか思えない」とか、「これは、どう考えてみても一部の王族や貴族のような裕福な人を除いて、たいていの人々は、一生、食うや食わずやというような人間として、最低限のどん底の悲惨な貧乏暮らししかできないだろう」としか考えられないようなケースにおいては、ほぼ大多数の人々は、もう最初から、この世における幸福や成功の実現なんて、ほぼ完全に諦(あきら)めてしまい、とにかく、「ものすごく偉い」とか、「凄い」と言われるような神仏の話を聞くと、はっきり言うと、「正直言うと、もう本当かどうかなんて、どうでもいいから、とにかく、その神仏を信じて、全託して(すべて任せて)、何か自分でも、今すぐ生活の片手間でも出来るような簡単な宗教儀式をすることによって、せめて自分が死んだ後のあの世でだけは、今のような不幸な生活をしなくて済むようにできないか」とか、「せめて、あの世でだけは、そうした神仏の加護の下で幸せな生活ができるようにならないだろうか」というような、神仏頼みの超簡単な信仰形式や修行形式の宗教が、どこもかしこも流行るような状況になりがちであった、ということです。
つまり、これはよく考えてみると、本当は信仰というよりも、多くの人々が、その時代のその国や地域の状況を見た時に、ある程度、客観的に分かりうる自分自身の将来的な予測に基づいた冷静な判断であるとしか全く言いようがないのですが、「これは、どう考えてみても自分も家族も生まれながらにして、もう人生がある程度、決まってしまっていて、ほぼ確実に一生、不幸な人生を送り続けるはずであるとしか、全く言いようがないだろう」とか、「どう考えてみても自分や周りの人々は、どんなに一生懸命努力したとしても、もう一生、不幸で悲惨な人生を送るのは、ほぼ確実だろう」というような状況においては、たいていの人々は、この世における自分の幸福や成功の実現というのは、もう最初の段階から完全に諦めてしまい、その代わり、「せめて自分が死んだ後のあの世の世界でだけは、ものすごく偉く尊い神仏の加護や救済によって、何とか極楽浄土に入れてもらえないか」とか、「せめて、あの世でだけは、食べ物や着る物や住む場所に苦労しないような、幸せな安楽な生活ができないものだろうか」などというように、本当はよく考えてみると、真実かどうかは、かなり怪しいとしか全く言いようのないような、ものすごく偉い神仏任せの天国暮らしを夢見るしかないような状況に置かれがちであったということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年10月24日 9:14 PM, コラム / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化