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言霊信仰について Part 6

5、言霊信仰の強い国では、ほぼオートマチックに文字信仰や文章信仰になってゆくので、やがて行き過ぎた法律主義や権威主義のようなものが、だんだん世間を一世風靡(いっせいふうび)するようになると共に、多くの人々は、創造性のない非常に保守的で従順な精神状態に慢性的に陥るようになってゆく

 それから第五には、これはあまり考えたこともない人が、ほとんどだったのではないかと私は思うのですが、実は言霊信仰が、その社会に浸透していると、多くの人々は、いつの間にかその国の法律のようなものに対して、かなり従順というよりも、一種独特の恐怖心をもって対応するようになるので、その結果、そうした言霊信仰のある国においては、「人間の幸福よりも社会の秩序の維持や法律の遵守の方が、ずっと大切だ」とか、「規則や命令が守れない人間は、最低のクズのような人間だ」とか、「この素晴らしい憲法を永遠に守り抜いてゆくことが人間の使命だ」というような一種独特の、ちょっと行き過ぎた法律主義や権威主義のような感覚を持ってゆきがちであったということなのです。

 これは少し分かりづらいと思うので、もう少し説明したいと思うのですが、要するにこうした言霊信仰を持っている国においては、たとえその国の法律の内容を詳しく知らなかったとしても、そうした国の法律が、まるで半自動的に動く生きているコンピューターみたいな感じで、全く無意識のうちに多くの人々の考え方や行動を縛り、コントロールしてゆくようなところがあったということなのです。

 そうすると、その国の為政者としては、一体どのような形の政治を行おうとするようになるのかというと、これは現代のような民主主義の時代に生きる人々にとっては全く意外な話であるのですが、たとえば、その国の人々をある一定の方向に思想誘導しようとした場合には、多くの人々が全くよく分からないような形で、その国の法律とか、あるいは普通の人々が全く知らないような形の秘密の決まりとか、行政命令のようなことをしておくと、不思議なことにその国の多くの人々は、その当人の表面意識としては全く知らないにも関わらず、そうした国の法律や、秘密の決まりや行政命令の中身に沿った形でもって、「これはいいことなので、こういうことをしよう」とか、「これは、本当は自分の本音としては、やりたいことなのだけれど、何となく悪いことのような気がするので、やっぱりやめよう」などという具合に、表向きは、誰にも全く分からないような形になっているにも関わらず、いつの間にか無意識のうちに、そうした一定の考え方や行動の方向に付き従っていってしまうようなところがあったということなのです。

 

言霊信仰の国においては、普通の人々が知る、知らないに全く関わりなく、その国で最も上に立つ人物の言葉が、まるで神の掟や神の決定のような霊的なパワーを行使するようになってゆく

 その理由は極めて簡単なのですが、要するに言霊信仰の国においては、多くの人々の上に立つ人物の言葉の力が、その国で最も大きな影響力を持った、まるで神の掟や神の決定のような霊的なパワーを発揮するようになるので、そうした状況の国家においては、そうした多くの人々の上に立つ人物の言葉と全く同じような扱いで、そうした人物の決定した法律や命令のような文章がそっくりそのまま、まるで目に見えない法律や命令のような霊的なパワーを行使することになっていたということなのです。

 それゆえ、実は言霊信仰の国というのは、そうした言霊と完全に対になるような形で「法律信仰」、あるいは「宗教教典信仰」や、さらには「文章信仰」のようなものが成り立つ国になりやすかったということが言えるのですが、この際にそうした国家の為政者が、とにもかくにも重用視しなくてはならなかったのが、そうした言霊を連ねたことになっている国家の発行している文章の塊に対して、多くの人々が、ものすごい権威や服従をせざるを得なくするために、何らかの形でそうした国家の発行している文章の塊(つまり義務教育における教科書や学校の校則など)を元にした非常に難しい試験を行って、その試験を通った人は、その国家の支配階級の一員に引き入れるけれども、その試験を通らなかった人は、その国の非支配階級になってもらうというような非常に難しい試験制度を実施することであったということなのです。

※文盲(もんもう)の人が、ほとんどであった昔の時代には、もう単純に、その人が字が読めるかどうかということが、そうした試験とほとんど同じような役割を果たしていたようです。

 

「文字霊(もじだま?)信仰」の成立した社会では、なぜか多くの人々は、単に文字に目を通すだけですべて分かったような気分になってしまい、その後、自分の頭で考えて、何らかの創造行為を行うようなことを極力避けるようになってゆくので、非常に保守的な伝統文化を重んじる社会になってゆきやすい

 このように言霊信仰の国は、ほぼ必然的に「文字信仰」というか、「文字霊(もじだま?)信仰(なんか妖怪みたいですね)」みたいな国になるということが言えるのですが、ここで問題なのは、こうした形で「文字霊信仰」の国になっていると、これは多くの人々にとっては全く意外なことなのではないかと私は思うのですが、人の話を聞いたり、文字を読んだりすると、それだけですべて分かってしまったような気分になって、その後、自分自身の頭で考えて、その話や文章の意味をより深く汲み取るとか、そうした話や文章を元にして自分自身で考えて、何か新しいものを生み出すというようなことが、なぜかあまり出来なくなるような人々が非常に増えてゆく傾向があったということなのです。

 つまり、こうした言霊信仰、文字信仰の国では、多くの人々が非常に受け身で、自分自身が主体的に動いて、何か新しいものを創造するようなことを無意識のうちに、だんだん避けるような状況になってゆきがちであったということなのですが、そうすると、これは現代のような日進月歩の社会で生活する私達としては、なかなか理解しづらいのですが、いったん何らかの形でそうした言霊信仰、文字信仰のようなものが成立した国の社会においては、なぜか多くの人々が非常に保守的になってゆき、新しいものを発明することもなければ、新しい社会のあり方を模索することもなく、いっけん非常に平和でのどかな安定した社会が、何十年どころか、何百年でも何千年でも、外国からの圧力とか、突然の飢饉や天変地異のようなことでも起きない限り、ずっといくらでも、えんえんと続いてゆくような状況にすることができたということなのです。

 つまり言霊信仰や文字霊信仰が成立した社会では、その国の権力者の家系というのは、かなりの長期間に渡って、大した努力をすることなく、かなり簡単に多くの人々を統治して贅沢な生活を続けてゆくことができたということなのです。

 

多くの人々の単純な思い込みとはかなり違って、言霊信仰とは、元は武力によって国家を統一した権力者の血筋の家系の人々が、いかにして末永く楽に簡単に多くの人々を支配し続けられるか、ということを考えに考えた末にたどり着いた究極の国家の統治法の一種であった

 このように言霊信仰というのは、いっけん昔の人々が、自然発生的に何となくやり始めたものだと考えやすいのですが、実際にはそうではなくて、何のことはない、元は武力の力によって天下を統一した権力者の血筋の家系の人々が、いかにして末永く楽に簡単に多くの人々を支配し続けてゆくようにできるか、ということを考えに考えた末にたどり着いた、言ってみれば、究極の国家の統治法の一種であったということなのです。

 

 追伸

 今回も、かなりぶっとんだ内容の話だったのではないかと私自身も感じているのですが、実は今日で現在のようなスタイルで、こうした霊的宇宙的な仕事に関わるようになってから、ちょうど7年目になります。

 現在のようなスタイルというのは、わりとかなり怖そうなタイプの存在ともある程度、そこそこ対等に渡り合えるかな、と思えるような霊的宇宙的な仕事のスタイルになって、ちょうど7年になるということなのですが、当然のことながら、それ以前には、それなりに常に本当に一生懸命、こうした霊的なことに関わっていたのですが、残念ながら、ここで述べているような闇の勢力と呼ばれる連中に対して、十分に渡り合えるような実力はなかったということです。

 細かい話は、いろいろ複雑極まるところがあるので割愛しますが、現在のところ、まだまだこの調子で今後も、こうした形のブログの連載は続けてゆきたいと考えています。

 それでは、みなさんのもとに幸せと繁栄がありますように。

 

 Cecye

 

Cecye(セスィエ)

2011年7月4日 9:24 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 社会、文化 / 神道



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