一緒に並行している話は、結構、物騒な話も多いのですが、これは、明日の分でも述べますが、私は、基本的に、いかなる大変な状況になったとしても、現在の延長線上の未来が続いてゆくものと考えて、常に、その時々において、自分がやるべき最善のことを、しっかりと行ってゆくべきであると考えているので、相変わらず、今回も、普通の教育の話の続きを書きたいと思います。
千年、二千年前の中国人の古語に当たる「漢文」は、努力のわりに、実用性の全くない、不必要な勉強の代表格の一つである
今回は、「漢文」についての話になるのですが、この漢文というのも、ほとんどすべてと言ってもよいくらいの人が、社会に出てから、ほぼ一度も使わなかった、不要な勉強の代表格の一つなのではないか、ということです。 漢文に関して、特に問題があるのではないか、と思われる内容は、次の三つです。
1、「漢文」というのは、千年、二千年前の中国の古語に過ぎないので、現代のような時代であれば、中東やヨーロッパ圏の聖書や文学の名作と同じように、せいぜい、現代の日本語訳で、文章の内容の良さが分かれば、それで、十分なのではないだろうか
まず第一には、これは、後から述べる「詩歌」についても、基本的に全く同じなのですが、学校でよく扱われる漢文の内容というのが、たいてい、「論語」といった、昔の中国の儒教の教えか、あるいは、昔の中国の詩人の文章が扱われることが、非常に多いのですが、これは、どちらも、ほとんど同じなのですが、もし、それらの文章が良いとするなら、それは、千年、二千年前の漢字の文章自体が良いからではなく、単に、その内容が良いからであると思われるのです。
それゆえ、私は、たとえ、昔の漢字の文章であっても、それは、現代で言えば、単なる中国語の古語に当たるような文章に過ぎない、というように考えて、現代のような時代であれば、基本的には、誰にでも、すぐに理解できるような、現代の普通の日本語訳の文章を読めば、それで十分なのではないか、というように考えております。
2、日本人の多くの学生は、「漢文は、難しい」、と言うが、何のことはない、それは、数千年前の中国人なら、誰でも話せた普通の中国語で書かれた文章に過ぎないので、それを、何も現代の日本の子供全員に、難しい漢字の古語のまま、読ませる必要性は、全くないのではないだろうか
第二には、これは、漢文教育の弊害であるとしか言いようがないのではないか、と私は思うのですが、「漢字の文章を見ると、一目見るだけで、もう難しくて、よく分からない気がしてくる」、とか、「もう見るだけで、うんざりする」、というような人が、現代の日本には、とても多いのですが、ところが、よく考えてみると、そうした漢文の文章というのは、何のことはない、一昔前の中国人の普通の日常語、つまり、中国人なら、誰でも話せるような、普通の中国語で書かれた、単なる日常語の文章に過ぎない、ということなのです。
例は、何でもいいのですが、たとえば、漢文で、「今春花鳥作辺愁」、などと書いてあると、現代の日本人には、いっけん、とても難しそうに感じるのですが、ところが、そうした漢文というのは、単なる一昔前の普通の中国人なら、誰でも話せた、普通の中国語で書かれた文章に過ぎないので、これを、現代の普通の日本人の感覚で、少し詩的に表現すると、多分、こんな感じになるのではないか、と思われます。
「新しい春が訪れて、色とりどりの花々が咲き乱れ、美しい鳥達の声が鳴り響いているのに、なぜか、今も、私の心は、暗く閉ざされたままになっている」、などというようなニュアンスになるのではないか、と思われるのですが、こうした文章を、わざわざ、現代の日本人には、すぐには、分かりかねるような難しい漢字の古語のオンパレードでもって、「今春花鳥作辺愁」、などと書いたものを、わざわざ、多くの子供達に、自分が望んだわけでもないのに、強制的に読ませるようなことをする必要は、全くないのではないか、ということなのです。
つまり、こうした漢文というのは、言ってみれば、中国語の漢字の古語の文章を、わざわざ、そのままの漢字で読むためのやり方を教えているわけなのですが、確かに、江戸時代ぐらいまでの日本であれば、外国の進んだ知識や技術を学ぶためには、近くの中国や朝鮮であるとか、あるいは、遠くのヨーロッパの言語の読み方を、ある程度、マスターしていれば、即座に役に立つような立派な実学になったのでしょうが、それが、現代のような時代になると、はっきり言って、千年前の漢文の知識があっても、すぐ近くの大勢の中国人とは、全然、コミュニケーションなんて、取れないし(漢文は、現代の中国語とは、漢字が、全然、違うので)、ましてや、漢字を見るだけで、もう嫌だなんて、刷り込みを、学生時代から、やられてしまったら、おそらく、たいていの人は、もうその人の人生において、自分から進んで、本を手に取って、読むような知的生活というものとは、全く疎遠の人生になってしまうのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)