今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。
この辺りで、多分、もうこんがらがってきて、よく分からなくなってきた方もいるのではないか、と私も思うのですが、実際には、本当に、もっともっと、ものすごく、ややこしい話なので、多分、これでも、今ある、こうした情報の中では、最も分かりやすいものの一つだと思います。
それと、現代でこそ、こうした話は、まだ珍しいのですが、多分、この文章を読まれている方の中には、その方の魂のうち、並行生(現在と同時期の別の人生)か、もしくは、未来の人生において、たいていの人は、こうした活動に、おそらく、関わったことがあるのではないか、と推測しています(多分、それが、みなさんが、こうした不思議な話の文章をお読みになっている、本当の理由だと思います)。
今回からの話は、さらに、ちょっと、ややこしい話になります。
宇宙を二分する「時空間変更派」と「時空間維持派」の活動
そうすると、人類の歴史においては、一体、どういうことが起きることになるのか、というと、これは、極めてややこしい時間認識の一つになってくるのですが、実は、このように非常に混乱した時間認識が成立している場合、人類の社会においては、次のような二つの人生観というか、運命観が、常に常に支配するような状況になりがちであった、ということなのです。
それは、一体、どのような人生観や運命観であるのか、というと、まず一つめの人生観や運命観としては、「人間は、いかなる努力や創造行為を行ったとしても、自分や他の人々の将来の人生や運命は、絶対に変えることができない」、というような、いわゆる、「運命絶対決定説」のような人生観や運命観と、それから、二つめの人生観や運命観としては、「人間は、自分や他の人々の努力や創造行為によって、いくらでも自分や他の人々の人生や運命を変えることができる」、というような、いわゆる、「運命自由変更説」のような人生観や運命観になってきます。
この場合、ここから、さらに、それぞれ二つの見方に枝分かれしてゆくことになるのですが、まず一つめの「運命絶対決定説」の方から述べると、「もし、そのようにして、自分や他の人々の未来の人生や運命が、完全に決まっているのであれば、そのまま何もしないで、その結果が、現実になるまで、ひたすら待っていればよい」、というような「諦観(ていかん)的運命決定説」のような考え方と、そうではなく、「そのように、もし未来の人生や運命が、完全に決まっていたとしても、何とか、さらに少しでも良い結果に変えられるように、もっともっと良い努力や創造行為を積み重ねてゆくべきである」、というような「諦観的運命変更説」のような考え方の二つの見方になります。
それから、二つめの「運命自由変更説」の方に関しては、「もし、現在の自分や他の人々の努力や創造行為によって、未来の人生や運命というのは、どんどんと変わっていってしまうような非常に不確定なものであったとしても、やっぱり、できるだけ、今の状態のまま何もせずに、そうした未来が、現実になるまで、ひたすら待っていればよい」、というような「楽観的運命享受説」のような考え方と、そうではなく、「とにもかくにも、できるだけ悪い未来の人生や運命を避けて、できるだけ良い未来の人生や運命を引き起こすための良い努力や創造行為を積み重ねてゆくべきである」、というような「楽観的運命変更説」のような考え方の二つの見方に枝分かれしてゆくことになります。
Cecye(セスィエ)
2011年4月20日 9:07 PM, アセンション・シリーズ 3