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神仏の絵や像は、あくまで単なる神仏の象徴に過ぎない

 今回から何回かに渡って、祈りや瞑想における注意点について述べてみたいと思います。

 

 こうした祈りや瞑想においては、ある程度、気をつけておかないと、本当の神仏のような存在ではなく、そうではなく、一種の「疑似神仏」、もしくは、「偽神仏」と霊的につながることになるので、非常に注意が必要です。

 

神仏の絵や像を、単なる神仏の象徴として捉えるのであれば、それほど問題ないのだが、そうではなく、そうした神仏の絵や像を、まるで本物の神仏のように考えて拝んだり、祈ったりすることは、霊的には、非常に問題がある

 神仏の絵や像を拝むようなタイプの宗教のスタイルというのは、これは現在も、世界中で大々的に行われているような非常にスタンダードな宗教のスタイルであるのですが、確かにそうした神仏の絵や像(神仏のシンボルなども含めて)が、自分の目の前にあると、精神的に非常に安心感があるし、また、うまく行くと、そうした神仏の霊的な加護を受けやすいというようなメリットもあるのですが、しかしながら昔から、いにしえの聖者達が、何度も何度も説明してきた通り、実は、そうした神仏の絵や像というのは、考え方や使い方を間違えると、偽神仏や悪魔の絵や像と、実質的にほとんど何も変わらなくなってしまう、というような非常に大きな問題点があるということなのです。

 つまり、そうした神仏の絵や像というものを、単なる神仏の象徴に過ぎない、というように単純に割り切って考えられるのであれば、別段、それほど大した問題にはならないのですが、そうではなく、そうした神仏の絵や像を、まるで本物の神仏のように考えて拝んだり、祈ったりするようになってしまうと、途端にそれらは、その霊的な働きにおいて、偽神仏や悪魔の絵や像と全く変わりないような、とんでもない道具に変化してしまうことになるということなのです。

 ですから、もし、そうした神仏の絵や像を飾りたいのであれば、それらは、単なる神仏の象徴に過ぎず、本当の神仏というのは、この地上の世界では、普通、肉眼では全く見えないような目に見えない存在、かつ物質とは全く違った精妙な霊的存在であるということを、よくよく知った上で飾るのであれば、それほど問題ないのですが、そうではなく、そうした神仏の絵や像が、まるで本物の神仏であるかのように考えて拝んだり、祈ったりするような行為に関しては、これは、はっきり言うと、本当に尊い神仏を信仰しているというよりかは、そうではなく、神仏の形をした、単なる木や石ころを一生懸命拝んでいるのと、霊的には、ほとんど変わりないことになってしまうということなのです。

 それゆえ、もし祈りや瞑想などの際に、その空間を清めたり、自分の精神を集中するための何らかの精神的な印のようなものが欲しい、というのであれば、そうした神仏の絵や像のようなものを飾ること自体には、別段、それほど問題はないのですが、そうした神仏の絵や像のことを、まるで本当の神仏のように考えて拝んだり、祈ったりして精神を集中するようなことに関しては、本当は、霊的には非常に危険なことであるということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年3月18日 9:12 PM, おすすめ記事 / スピリチュアリズム、霊界



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