⑤よく宗教では、偉い人の権威を作るために、ものすごく大変な禁止項目や制限項目を設けて、それができた人を覚者や聖人とし、また、それを著しく破った人を悪魔や魔王に仕立てることが非常に多かった
第五には、これもよくある話なのですが、そうした宗教や社会では、偉い人の権威を作るために、「それって、普通の人には、ちょっと無理なんじゃない?」とか、「そんなこと出来て、一体、何が偉いの?」というような内容のかなり厳しい宗教的な禁止項目や制限項目を次から次へと作っては、一般の人々や宗教修行者に課すようなところが非常に多いのです。
そして、こうした肉体的、もしくは、精神的な我慢や忍耐というものを「修行」と呼んで、それが出来た人間を、まるでものすごく偉い覚者や聖人のように扱ったり、あるいは、それが出来ない人間を、まるでどうしようもない落伍者(らくごしゃ)や悪魔呼ばわりするような宗教の仕組みというのがよくあるのですが、こうした宗教における覚者や聖人についても、また落伍者や悪魔についても、私は、本当は、その権威や認定自体が怪しいのではないか、というように率直に感じております。
こうした宗教的な禁止項目の代表的なものとしては、「食べない」、「寝ない」、「セックスしない」、「考えない」、「同じ動作や姿勢を長時間続ける」などというようなものがあげられるのですが、普通の人間の目から見ると、確かにそうした肉体的、あるいは、精神的な我慢や忍耐が、ある程度できるということは、人間としても、そこそこ優秀なことであるとは思うのですが、しかしながら、よく考えてみれば、「それと信仰や悟りや偉さと、一体、何の関係があるの?」とか、「それが出来ないからって、何でものすごい落伍者や悪魔呼ばわりされないといけないの?」というような素朴な疑問というのは、いつまで経っても解消できないようなところがあるのです。
それゆえ宗教においては、よく「修行」と称する、そうした結構、過酷な肉体的、あるいは、精神的我慢や忍耐を強いることが非常に多いのですが、私は冷静に考えてみる限り、はっきり言って、それが出来たからといって、別に覚者や聖者であるなんて、普通、全然言えないだろうし、また、それが出来なかったからといって、何もその宗教や社会において、ものすごい馬鹿や脱落者とか、悪魔呼ばわりされる理由というのは、本当は全くないのではないか、というように率直に感じております。
Cecye(セスィエ)
2011年1月14日 9:25 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳