ここでは少しだけ未来の地球の経済体制というのは、一体どのような形に変化してゆくのか、ということについて述べます。
これは地球の未来のシナリオとしては、もうすでに、ほぼ完全に決定しているような内容の一つになるのですが、おそらく、あと百年ぐらいのうちに地球では、お金というものが、ほぼ完全に使われないようなマネーレスの世界に移行してゆくことになります。
それでは、一体どのような形で、そうしたマネーレスの世界に移行してゆくことになるのかというと、大体、次のような三つのことが言えます。
1、お金は、だんだん個人や会社が保有する、単なる数字上のポイントのような扱いに変わってゆくことになる
まず第一には、これは現在でも先進国では、もうすでに何十年も前から起き始めていることであるのですが、多くの人々の仕事や生活の中で、お金そのもの(つまり紙幣やコインのような現金)は使われなくなり、その代わりに銀行のキャッシュカードやクレジットカードのように、そうしたお金の所有やお金の受け渡しというものが、単なる数字上の記載や数字上の取引だけで十分に行えるような社会に変わってきているということなのですが、もう少し先の未来では、こうした流れがもっと加速的に増えてゆき、そのうち現金というものはほとんどなくなって、お金というのは、一人一人の個人や会社が自由に扱える数字上のポイントのような扱いに地球全体として、だんだん移行してゆくことになるということなのです。
2、多くの人々の欲求や価値観の方向性としては、お金の獲得そのものよりも、自分の夢の実現や、社会に奉仕する事業への関わりといった自己実現そのものに対する欲求や価値観の方が、だんだん上になってゆくようになる
第二には、地球の長い歴史の流れから見ると、二十世紀から二十一世紀の現代というのは、物質至上主義、もしくは経済至上主義のちょうど最期の最盛期のような時代に当たっているので、これまでの地球の歴史の中では、過去の時代では、ちょっと考えられないくらいの経済の大変動や物質的繁栄や衰退というものを、特にここ百年くらいの間に地球のあちこちの地域では代わる代わる謳歌するような状況になっていたということなのですが、これがもう少し先の未来になると、やがて現在の地球人の大部分というのは、こうした物質至上主義や経済至上主義の生き方や考え方そのものに対して、かなり懐疑的になり、飽き始めるようになってくるので、その結果、多くの人々は自分の夢の実現とか、何らかの社会的奉仕事業のような仕事や生き方そのものに対しては非常に熱意を持てるし、関心もあるのだけれども、そうした仕事や事業の結果、獲得できるお金そのものに関しては、だんだんそうした事業の必要経費や個人や家族としてある程度、豊かな生活ができる程度のお金の所有以上には、それほど価値を感じられなくなるような未来になってゆくということなのです。
これは経済や科学技術の発達によって、一昔前なら、はっきり言って王侯貴族でもなければ、まずは絶対に不可能であったろうと思われるような自由で豊かな生活を、現在の先進国では、誰でもほとんど当たり前のようにできるようになったというような社会の変化とも非常に大きな関係があるのですが、要は、多くの人々の間で、「そんなにたくさんお金を稼いで、一体どうするの?」とか、「お金を通して、自分の人生で一度はやってみたかった贅沢や望みというのは、もうすでにほとんど体験できたので、今度はそうしたお金の使い方以外の何か別の体験がしてみたい」というような、もう一段上の別の次元の世界に、この地球の社会全体が移行してゆくということでもあるのです。
3、経済の発達の結果、近い将来、多くの人々は、自分が働いて物やサービスを生み出すことよりも、多くの人々に自分の生み出した物やサービスを使ってもらうことの方に欲求や価値観の重心を移すようになってゆく
それから第三には、これも現在の世界でも、もうすでに起こり始めていることの一つであるのですが、世界中、あっちもこっちも自由主義経済にして企業も個人も、とにもかくにも最大効率で最大成果(最大利益)を競い合っているような世界になっているので、この世界全体の流れとしては、どんどん働く人や働く時間を少なくしては、世界中より優れた製品やサービスでどんどん埋め尽くすような経済活動を行っているということになるのですが、そうすると、これはまだどの経済学者もあまりはっきりと言っていないことなのですが、特に現在の先進国では、経済の効率化を進めれば進めるほど、どんどん失業者や不況業者は増えるけれども、その社会全体としては、物質的にさらに豊かになってゆく、というような非常に不思議な社会問題を抱えることになってしまったということなのです。
そうすると政府としては、これが一昔前だと建設や土木といった大規模な公共事業をやって失業者に仕事を与えて、そうした経済システムによって産み出された、たくさんの製品やサービスの購買者になってもらえば、それで経済全体としては、何とかうまく回るというような経済政策ができたのですが、現在だと環境問題や経済の成熟化の問題などもあって、そうもいかないので、結局、どうするのかというと、これは表向きは政治家は絶対に口にしないのですが、とにもかくにも政治の運営に無理や無駄を作って、高い武器とか、大土木事業とか、使わない贅沢品とか、何の有益な仕事もしていないような人達にものすごい大金をばらまいては、その社会全体でお金がぐるぐると回るようにしておかないと、肝心要のその国の基幹産業に当たるような世界的に見ても競争力の高い大企業や新興企業が、みんなダメになってしまうというような訳のわからないジレンマに陥るようになってしまったということなのです。
そうすると理論的には、一体どういう結論になるのかというと、だんだん社会全体の常識として、「バリバリと働きたい人のために優秀な働き先を確保するためには、そうした人々の提供する素晴らしい製品やサービスの買い手となる人々にも、いろいろな理由をつけて、最低限というよりもある程度、普通の経済生活を保障してあげるようにする(つまり、いろいろな理由を付けては、普通の市民に直接、お金を配るようなことをする)のは、その社会全体として絶対的に必要なことだ」とか、「一生懸命仕事をして、お金を稼ぐ人も偉いが、そうした人々の仕事にお金をたくさん使ってくれる人も同じくらい偉い」とか、「自分の分以上にあまりに欲張りするような人間がいるのは困るので、そういう人間には経済原理によって、ある程度何かしら社会のために貢献しなくてはならないような社会システムにしておく必要はあるが、だからと言って、みんながあまりに一生懸命働き過ぎるような社会にしておくと、過剰な商品やサービスの生産や流通による経済全体の停滞や環境問題などが巻き起こって、その社会の経済全体がうまく回らなくなってしまうので、少しずつ止めるようにしてゆこう」などというように、これまでの時代では、ちょっと考えられないような非常に不思議な経済社会の状況に、もうすでに一部の先進国ではなり始めているということなのです。
つまり、特に先進国では、これまでの経済成長の結果、「みんな一生懸命働かないと生きていけない」というような不足や消耗を前提とした経済の世界はもうすでに終わっており、そうではなく、その反対に「自分達が一生懸命働いて作った商品やサービスを、みんなが買ってくれないと生きていけない」というような、そうした、どちらかというと過剰や飽和を前提とした経済の世界にもうすでに移行しつつあるということなのです。
こうした現在の経済の状況から考えてゆくと、多分、現在と同様、未来になっても、お金のようなものが、その商品やサービスの価値を示すための一定の基準になるというようなお金の役割自体は変わらないのではないかと私も思うのですが、その一方で現在以降も、どんどんと合理化され、拡大してゆく経済活動の結果、多分、未来のある時点から多くの人々は、物やサービスを生み出すこと自体よりも、そうした物やサービスを使ってもらうことの方に欲求や価値観の重心を移してゆくような社会の流れになってゆくのではないかということなのです。
このように、これまでの地球規模での経済発展の結果、やがて、もう少し先の未来では、経済やお金の観念や、働いてお金を稼ぐことや、お金をもらったり、使ったりすること自体に関する考え方が大きく変わってゆくことになるということなのです。
Cecye(セスィエ)