※霊的な体験と、物質世界の体験の感覚のギャップについて Part 1
これは、こうした霊的なことが書かれている文章を読まれているような人には、かなりわかりやすい話になるのではないか、と思うのですが、霊的な存在をかいま見たり、彼らの言葉を聞いたり、彼らの存在を感じている際には、普段の物質世界の体験と比べると、「いったい、いつ、どこなのか」というような時間や空間の感覚や、また場合によっては、「いったい誰が、何をしたのか」というような存在や出来事の感覚まで、かなり希薄になってしまいがちなところがあります(睡眠中の夢とも多少似たところがあります)。
その上、そうした霊的な体験が終わって、再び、普段の物質世界の日常生活に戻ると、そうした霊的な体験が、まるで夢か幻であったかのように感じられてくることも多いので(この世界と次元が違う体験だからだと思われます)、ですので、その後にも、かなりはっきりとわかるような、よほどきっちりした証拠のような物でも残っていないと、そうした霊的な体験をした本人ですら、本当の体験だったのか、それとも単なる幻覚や錯覚のような体験だったのか、よくわからなくなってしまうことが多いようなのです。
このように霊的な体験には、この物質世界の体験とは、かなり違った性質があるものなのですが、そうすると「ヨハネの黙示録」のような霊的な幻視や預言によって書かれた文章に関しても、そうした霊的な体験の性質上、どうしても、「いったい、いつ、どこの話なのか」というような時間や空間の感覚や、さらには、「いったい誰が、何をしたのか」というような存在や出来事の感覚など、たいてい、この物質世界では、常にはっきりと明確であることが多いような内容が、何となく、よくわからなくなってきてしまいがちなところがあったようなのです。
そうしたことが原因で、古代や中世の人々であっても、また現代や、もっと先の未来の人々であっても、こうした霊的な文章を読むと、何となく、「そこに書かれている出来事は、今まさに起きていて、そして、そこに書かれている未来の出来事も、まさに、これから本当に起きるのではないか」などというように、はっきり言うと、いつになっても、どこにいても、誰が読んでも、そうした、かなり不思議な感覚になりがちだったようです。
あと、それ以外の理由としては、古代ローマ帝国の全盛期に書かれた「ヨハネの黙示録」の場合、あまり明確に未来の預言が書いてあると、それを口実に当時のキリスト教の人々への弾圧が、もっと激しいものになった可能性が高かったので、そう簡単に、すぐにはよくわからない内容になっているけれども、要するに、よくわからないような、そう遠くない未来には、キリスト教の人々には、素晴らしい未来が待っているのだ、というような未来への希望が持てるようなメッセージになっていたのではないか、というように思われます。
Cecye(セスィエ)
2018年12月3日 9:03 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / ユダヤ教 / 予知、予言、未来予測 / 宗教、道徳