④それぞれの人の教養や専門知識の差によって、一つ一つの物事や言葉に対する理解や考え方には、かなり大きな差があるものである
四つめは、さらにもう少し難しい観点になってくるのですが、それが、いわゆる、それぞれの人の教養や専門知識の違いによる一つ一つの言葉への理解や考え方の違いになります。
例えば、「歴史」という言葉を例にすると、あまり歴史のことがわからない人にとっては、「ああ、昔は、いろいろなことがあったんだよね」とか、「ああ、あのお侍やお姫様が出てくる昔の話だね」というような理解になるのでしょうが、それがその国や地域の歴史について、ある程度知識や教養を持っている人になるとかなり大きく変わってきて、「歴史・・・。日本だと鎌倉時代には、こんなことがあって、江戸時代には、こんなことがあって、それから近現代には戦争とか、民主化とかいろいろあったので、いったい、いつ頃の話のことかな?」とか、「ああ、この寺は、こんな由緒があって、1000年以上昔からあるんだ」などというように、結構たくさんの知識や教養がどっと溢れるような感じで思い出されてきて、その上で、そうした「歴史」という言葉を理解しているような感じになるのではないかと思われます。
それが何らかの専門分野について深い造詣(ぞうけい)のある人になるとさらに変わってきて、「ああ、他の分野のことはよく知らないけれども、その紅茶は、元々は中国のお茶だったんだけど、こんな歴史の経緯でイギリスでたくさん飲まれるようになったんだ」とか、「ああ、この楽器は、元々はこういう古い楽器がだんだん進化して、現代のような形や弾き方になったんだ」などというように、多少分野は狭くなるのですが、もっと詳しい感じで、そうしたそれぞれの分野の歴史について、よく知っているような感じになってきます。
そうした状況に、さらにそれぞれの人独自の何らかの体験が加わった場合には、「昔、その場所には、自分が尊敬する有名な歴史上の人物が住んでいたんだ」とか、「ああ、あの国には、昔、自分のおじいさんや、おばあさんが住んでいたんだ」とか、また場合によっては、「ああ、あれは、とんでもない侵略や略奪だったんだ」などというように、もっと深い憧憬や感傷をもって、歴史というものをかみしめるような感じで理解するようになってきます。
ここにさらに他の人々とのコミュニケーションの問題が関わってくると、「本当は自分としては、こう思っているのだが、この場所では、気分を害する人が出るといけないので、こういう言い方をした方がいいのではないか」とか、「自分や自分に身近な人々の知識や体験としては、こうなのだが、同じ時代に全然別の体験をした人もいるようなので、そういう人々の立場もしっかりと尊重するべきなのではないか」などというように、自分が考えている歴史の感覚と、他の人々が考えている歴史の感覚を、いかにより良い形でうまくすり合わせながら調和した関係を築いてゆくか、というようなコミュニケーションの問題が発生してくることもあります。
このように多くの人々が、一言で簡単に「歴史」というような同じ言葉を発していたとしても、実際には、それぞれの人の教養や専門知識の違いや、また場合によっては、そうしたことに関わるような、それぞれの人の経験の違いやコミュニケーションの問題によって、かなり違った感覚で捉えられていることがあるということなのです。
Cecye(セスィエ)