三つめは、そのように様々な形で普段、私達が知ったことをある程度まとめるような形で、例えば、「ああ、そうだったのか」とか、「ああ、これはこんな意味だったのか」とか、「ああ、これが起きたのは、こんな理由だったのか」とか、「これとこれは、こんな形でつながっていたのか」とか、「ああ、さっき見たものは、こういう名前の生き物だったのか」とか、「ああ、あの生き物は、こんな種類の生き物なのか」とか、「ああ、この道具は、こうやって使うのか」とか、「この機械は、こんな仕組みになっているのか」などというように、もう少し深い感じで、様々な物事の名前や意味や分類や理由や働きを知るような知的な働きを、普段、私達は、何らかの物事が「わかった」とか、「理解できた」とか、「よくわかった」というような表現をしていることが多いように思われます。
つまり人間が、もっと深い感じで、様々な物事の名前や意味や分類や理由や働きを知るような知的な働きを、普段、私達は「わかる」とか、「理解する」などと呼んでいるということです。
四つめは、今度は少し違ってきて、そうした形である程度、理解できた物事に関して、もっと具体的な形で、例えば、字が書けるとか、はさみが使えるとか、料理ができるとか、車が運転できるなどというような内容に関しては、普段、私達は「知る」とか、「わかる」というような言葉は使わずに、何らかの物事が「できた(できるようになった)」とか、「やれた(やることができるようになった)」というような表現をすることが多いように思います。
ですから、これは世間では、時々、多少混乱した形で理解されているようなところもあるのですが(つまり、実際には、できないにも関わらず、単に知っているだけで、あたかも本当にできると思い込んでしまっていることがあるので・・・)、要するに人間の知性の働きとしては、単に「知っている」とか、ある程度、「わかっている」というような知的な状態のさらに一段上の状態として、これは種類や程度は様々なのでしょうが、何らかの物事を、自分は「できる」とか、あるいは「やれる」と表現していることが多いように思われます。
Cecye(セスィエ)
2016年6月1日 9:03 PM, 知恵、正しさ