ここに現代であると、さらに微妙でややこしい問題が生じてくるので、これも例をあげて説明したいと思うのですが、例えば、それほど美男美女でない人であっても、プロのメイクや映像技術者の手を借りれば、それなりの美男美女に見えるような映像が作れるとか、それほど立派な精神性でない人であっても、演技の訓練や周りの人々の演出によって、かなり立派な精神性の持ち主のように見せることができるとか、本当は本人が言っていないことであっても、政府や組織やマスコミのやり方によっては、かなりの真実味を持って、あたかもその本人が直接言ったかのように伝えることができるとか、さらには何らかの事情で、たまたまその時、ほんのちょっと機嫌が悪かっただけなのに、あたかもいつも怒り散らしているような印象に見せたり、逆にほんの少ししか穏やかな表情なんてしていないのに、あたかもいつも穏やかな人柄であるかのような印象に見せることができるなどというように、要するに実際の人や物の事実と、そうした実際の人や物の状況を、いったいどのような形で記録し、多くの人々に伝えるか、というような記録や伝達のあり方によって、はっきり言うと人間や物事の印象というのは、本当に天と地ほどの違いが生じるものなのです。
ですから、こうした観点から考えてゆくと、実際に自分が見聞きしたり、触ったりして、実際に自分自身が確認した知識の内容と、そうではなく書物を読んだり、テレビやビデオで観たり、また他の人々から、いろいろ話は聞いたけれども、実際に自分が見聞きしたり、触ったりしたわけではない、要するに自分としては、すっかり完全に知っているような気分になっているかもしれないけれど、本当はどのようなものなのか、よくわかっていないような知識の内容についてはある程度明確に線を引いて、実際に自分が見聞きし、触れて確認した知識の内容についてはある程度、真実として受け入れてもよいけれども、そうではなく、実際に自分が見聞きし、触れて確認したわけではないような知識の内容に関しては、実際には、本当は違ったものなのかもしれない、というような認識を持つことは、とても大切なのではないかと思います。
※ここでは、あまり深く触れられませんが、歴史、要するに古い昔の人物や出来事に関するイメージに関しても、ほぼ同じようなことが言えます。
Cecye(セスィエ)
2016年3月25日 9:04 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 教育 / 歴史 / 現在のアセンションの状況 / 知恵、正しさ