二つめは、これも非常に問題が多い内容になるのですが、特に一昔前の時代の人々は、自分達に「学」(学歴や教養)がないと考えている人々が多かったために、自分がよくわからないような難しいものを何でも凄いと思ったり、何でもありがたがったりすることが非常に多かったようなのですが、そうした時代の延長で現代であっても、昔の古い古語の祝詞(のりと)や呪文や、一見きれいな響きの詩や和歌のようなものや、あるいは漢字や古語のたくさん羅列した難しい経文のようなものや、非常にきれいな服や装飾のたくさんあるものを見たり聞いたりすると、多くの人々が、それほど深く考えずに何となく凄いとか、ありがたいものだと思ってしまうことが多いようなのです。
ところが、こうしたものもよく調べてみれば、現代であれば、ある程度の理解力があれば、普通の人でも十分に理解できるような宗教的な内容、例えば、「偉大な神の前に謙虚な気持ちで、感謝と決意の気持ちを伝えます」とか、「昔々、偉大な神が来て、◯◯と言った」とか、「今年も天候に恵まれて豊作だったので、神様に心から感謝します」とか、「今年も神様の守護と恵みの下で、一生懸命、学業や仕事に精進します」などというような、はっきり言うと、世界中、どの宗教にも共通するような人間の自然な宗教心のようなものを表現していることが、意外と多いものなのです。
ですから、こうした一見難しそうな宗教的な言葉や表現があったとしても、現代人であれば、それほど難しく考えずに、「これは現代風に言うと、こんな意味なのか」とか、「難しいことが凄いなんて考えずに、現代語で自分がわかるようにしっかりと意味を理解してこそ、本当の宗教的な功徳があるんだ」というように考え直して、そうした宗教的なことに取り組まないと、はっきり言うと、そうした宗教的な行事に参加しているだけで、霊的には、ほとんど意味がないというような状況になってしまうこともあるので、非常に注意が必要なのではないかと思われます。
※あと、こうした人の場合、その人自身による自分の知的な能力への自己制限のために、ある一定以上の霊的な認識力が持てなくなって、死んだ後にも、ある一定以上の霊的な世界には上がれなくなる傾向があるようなので、霊的には、かなり問題があるように思われます。
Cecye(セスィエ)
2016年3月15日 9:04 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 現在のアセンションの状況 / 知恵、正しさ