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一院制と二院制について Part 4

日本の政治を良くするには、政治家と一般市民の間の意見のギャップを埋めるような、もっと気軽で楽しい、成熟化した民主政治を実現してゆくことが大切である

 第三には、そうすると、大多数の国民の意見を反映した形で、より良い政治決定が行えるような、日本の理想の政治状況というのは、いったい、どのようなものなのか、というと、これは単純で、次のような政治状況の場合であることになります。

①国民の大多数の支持を得た、安定多数の内閣があって、しかも政治家と国民との間に非常に風通しの良い人間関係があり、あまりぎくしゃくした政治問題を引きずっていないこと。

②国内外にあまり大きな問題や変化がなく、政治情勢として、あまり急激な大変革を迫られていないこと。

 こうした状況であれば、日本の政治システムの場合、わりと安定している上に、かなり良い政治的な成果があげられるような状況が続くのですが、もし、こうした状況が多少崩れて、特に国内外にいろいろな大きな問題や変化が生じた場合には、非常に不安定な政治情勢が、数年数十年に渡って続くような事態になるようです。

 それでは、そうした不安定な政治状況では、国民の側としては、いったいどのような政治行動をするのが最善なのか、というと、大まかに言って、次のような三つの内容になるのではないか、と思われます。

 まず第一には、ここ数十年の日本の政治情勢を見ていると、たいてい、大きな政治的な混乱や低迷が起きるのは、戦後の復興が終わり、経済成長も一段落しつつあった1960年代や、バブル経済の崩壊や冷戦終了後の1990年代など、国内外に非常に大きな変化や混乱が生じた時代であったようです(つまり急激な変化に政治がついてゆけない状況)。

 そうした際にあまり大きな政治的混乱が起きないようにするには、単純明快、できるだけ多くの国民が、「普段と違って、こうした時だけは、政治について、ある程度、真剣に考え、自分なりの意見をまとめて、何らかの形で政治参加しなくてならない時である」、と腹をくくって、たとえ少々忙しくても、進んで政治情勢について、いろいろと調べて、自分なりの政治的な意見を確立することが、とても大切になります。

 そして、そうした過程で、自分が支持することにした政治家や政党に関しては、できるだけ多く彼らの話を聞いたり、自分なりの意見を述べたりしながら、ある程度、しっかりサポートするようにしておけば、多少いろいろな事件や騒動が起きたとしても、あっちに行ったかと思うと、今度はこっちに行くというように、あまりごちゃごちゃと政治が流動化するような事態にはなりづらくなるのではないか、ということです。

 第二には、日本の政治情勢を見ていると、学校教育の影響からか(つまり一人一人の国民が、しっかりと政治家を評価するための訓練ができていない)、国民の側が、「その政治家や政党の政治の何が良くて、何がいけなかったのか」、ということと、「その政治家や政党が、いったい、どんな法律違反をしたのか」、ということの違いが、よく分からないようなところがあるようなのです。

 ですから、私は、多くの国民がもう少し冷静になって、政治家がやっている政治上の仕事の良し悪しに対する評価と、賄賂や選挙違反といった、単なる法律違反である政治家の犯罪との区別をしっかり分別できるような、もう少しドラスティックな目を持つことが、とても大事なのではないか、と思っています。

 第三には、それと、もう一つ日本人が考えやすい政治的な偏見に、「政治は、政治家や役人が勝手にやるものだから、そう簡単には変わらない」、というような妙な思い込みがあるのですが、ところが、実際には、日本は、ここ20年の間に、普通選挙での投票活動、つまり国民の力によって、何度も何度も、かなり劇的な政権交代をさせている国の一つなので、これは、かなり間違ったマイナスの思い込みなのではないか、ということなのです。

 ですから、こうした変な思い込みは極力排して、普通の市民が、もっと気軽に政治家の話を聞いたり、あるいは、彼らに自分の意見を言えるような、もっとオープンな政治のスタイルにしておけば、今日でもよく聞くような政治家と一般市民の間の意見のギャップ、つまり、一般市民が、「政治家は何もやっていない」、とすぐに怒りの声をあげたり、あるいは、その反対に、政治家が、「自分達としては、日夜、一生懸命、政治の仕事に励んでいるつもりなのだが、有権者の人々は、なかなか、その中身や苦労を分かってくれない」、というような、政治家と一般市民の間の意見のギャップはかなり埋まるのではないか、ということなのです。

 こうした形で、政治家と一般市民が非常に身近に接し合うような、もっと気軽で楽しい、成熟化した形の民主政治が実現してゆけば、日本の政治は、もっと安定した素晴らしい成果をあげられるようになってゆくのではないか、ということです(参考)。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 少し話題はそれるのですが、例えば、日本の学校教育の問題では、ここ数十年の間、学校教育に不満のある人達は、みんなバラバラな状態で、学校や教師に反抗したり、不登校になったりするだけだったので、結局、何の変化もないまま、簡単にドロップアウトさせられてしまう上に、全体としても何も変わらない、というような状況がずっと続いていたように思われます。

 ところが、こうした場合、民主主義的には、学校に文句や提案のある人々が、ある程度の人数、しっかりまとまった上で、学校や教師ではなく、その地域の政治家や政党や、あるいは、中央の首相や文部科学大臣や文部科学省の役人の人達に、しっかりとしたクレームや提案の申し入れをしたり、また、もっと積極的に、政治家の選挙支援をするようにしていれば、もう少し簡単に教育問題は良い方向に変わったのではないか、ということなのです。

 つまり、学校教育全体の改革や改善に、大した決定権のない家庭の親や現場の教師の人達に、誰が、いくら反抗し、意見を述べたとしても、また、いくら仲間内で喧嘩やいじめをしたとしても、そして、いくら親や一部の教師が子供に小言を言い、厳しく叱りつけたとしても、日本の教育は、ほとんど何も変わらないが、そうした学校教育全般に強い決定権を持っている首相や文部科学大臣や文部科学省の役人の人達や、また、もっと身近な議員の人達に細かなクレームや提案をあげたり、あるいは、ある程度の人数でまとまって、彼らの政治活動を積極的にバックアップする後援団体になってしまえば、教育の改善は、もっと簡単にできるのではないか、ということです。

 

Cecye(セスィエ)

2013年8月17日 9:02 PM, 政治 / 教育 / 社会、文化



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