5、セックスによる男女の肉体的、精神的結びつきは、愛と調和と悦びが渾然一体となって、霊的に融合、上昇した状態なので、確かに一種の悟りの境地と言えないこともないのだが、人間社会では、うまくバランスを取らないと、いろいろな問題が巻き起こることがあるので注意が必要である
第五には、今度は、少し刺激的な話になるのですが、よくタントラや密教系の宗教では、男女のセックスが悟りの境地として描かれていることがあるのですが、これに関しては、次のような二つのことが言えます。
まず第一には、これは本当は肉体的には、男と女でも、男と男でも、また女と女でも全然構わないのですが、基本的に男性性と女性性の肉体的、精神的結びつきは、霊的には愛と調和と悦びが渾然一体となって、霊的に融合、上昇した状態であると考えられているので、確かに霊的にはセックスの悦びの世界は、悟りの境地の一つであるというのは、間違いのない事実なのではないか、ということです。
第二には、ところが、これには一つ落とし穴があって、こうしたセックス系の悟りを中心とした宗教形態をとると、人間社会というのはとても難しいもので、普通の仕事や生活であるとか、あるいは、集団や社会全体の秩序やまとまりのようなものが、うまくバランスをとらないと、いろいろな面でほつれて、うまく行かなくなってしまうようなところがあるのです。
それゆえ、そうした宗教形態というのは、短期的には、本当に素晴らしい結果が出るようなところもあるのですが、ただ長期的には、よほどのバランスの取れた知恵者のような人物が舵取りをしていないと、結局、どこかの段階でそうした人間集団というのは、とんでもない大失敗をしてしまうことが多かったのです。
その結果、人類の歴史では、そうした「セックス」=「悟り」と考える宗教や国家の集団というのは、時折現れて、多くの人々の興味や関心を引きつけることがあったにも関わらず、ある程度の期間が過ぎると、どうしても、いろいろな理由で歴史の世界から消え去ってしまうことが多かったようなのです。
ですから、こうした観点から見た場合、「セックス」=「悟り」とするような宗教に関しては、堅苦しい道徳律の観点を除けば、確かに多くの人々の本音ベースでは、それは最高の宗教形態になるのでしょうが、ただ、それには、それなりの運営上の難しさがある、というような非常に諸刃(もろは)の剣のようなところがあったということが言えるでしょう。
Cecye(セスィエ)
2012年10月24日 9:03 PM, インド思想、ヒンドゥー教 / 仏教 / 宗教、道徳 / 愛について / 知恵、正しさ / 結婚、家庭