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敗戦国側の政治家や一般市民の考え方と、戦勝国側の政治家や一般市民の考え方の違いについて Part 1

 いっけんアセンションとは、かなりずれた話が続いているのですが、この前の続きで、もう少し戦争関連の話を続けたいと思います。

 

敗戦国側の政治家や一般市民の考え方と、戦勝国側の政治家や一般市民の考え方の違いについて

 まず最初に、これはあまり深く考えたことのある人は少ないのではないかと思われる話になるのですが、例えば、特に戦争の話題となると日本の場合、国内外のいろいろな人々の戦争の話を聞いていると、何だか加害者のような気持ちにもなれば、また被害者のような気持ちにもなるというような、ちょっと微妙な感覚がある上に、そこに書物やテレビからの情報は、「戦争は、多くの人々に大変な被害と悲しみをもたらした」とか、「二度と、このような戦争の惨禍(さんか)を繰り返してはならない」というような内容の話が再三繰り返されるようなところがあるのに対して、例えば、戦勝国側のアメリカやイギリスやロシアの場合には、軍事的な独裁国からの突然の侵略に対して、防衛上の必要から正義の戦争をしたというような立場になるので、基本的にそうした戦争に関する話というのは、「昔、独裁国から突然の非人道的な攻撃を受けたので、それに対して国民が選んだリーダーの下で、国民一丸となって敢然と立ち向かい、勇敢に戦って、そして大変な犠牲を払いながらも最終的には勝利した」とか、「正当な理由の下での軍事力の行使は、国家として当然のことだった」などというようなスタンスがとられることが多いということなのです。

 つまり、ここで大切なのは、日本のような昔の敗戦国の場合には、

①戦争は、大変な犠牲者と被害を出した、とても悪いことだった。

②本音はどうであれ、建前的には、常に侵略戦争をしたことを心から反省していると言わないといけないようなところがある。

③だけど、あまり悪かったことを認めすぎると、いつまで経っても外交上の理由で、いろいろなところから、いっけん正当そうな、めちゃくちゃなことを言われたり、やられたりするようなところもあるので、すでに外交上ある程度、決着がついていることに関しては、基本的に全部現状維持で、はねのけるようなスタンスにしたい。

④戦争で亡くなった兵士に関しては、敗戦という結果上、単純に国家の英雄としては扱えないので、一応、戦争に関連のある時には、それなりの敬意を払いたいが、そうでない時には、あまり大きな声で讃えるようなことは、いろいろなところからクレームが来るので控えないといけない。

 というようなスタンスになるのに対して、昔の戦勝国の場合には、

①侵略から自分の国を守るための武力行使は当然だ。

②国家の政策上、必要な武力行使を行うのは、国家の当然の権利だ。

③もし相手の国から何らかのクレームが出たとしても、それは国際関係的にはお互い様なので、ある程度は仕方がないと単純に割り切ればいい。

④もし戦闘中に戦死者が出た場合には、国を守るために戦い、命を落とした立派な国家の英雄として葬るのは当然だ。

 というようなスタンスになってゆくことが多いということなのです。

 ただし、これは政治家や役人など、外交に関わる人々の基本的なスタンスになるので、一般の人々の感覚というのは、時代を隔てれば隔てるほど、かなり変わってくるようなところがあります(つまり日常の仕事や生活などの現実ベースというか、本音ベースなので・・・)。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年8月25日 9:02 PM, おすすめ記事 / 政治 / 歴史 / 社会、文化 / 軍事



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