4、戦後、70年近く経つ現在の時点では、戦後の極東軍事法廷の判決にこだわらず、もう一度、できるだけ冷静な客観的な立場で「当時、いったい誰が何をどう決め、どういう行動をした結果、何が起きたのか」ということについて、多くの国民が参加できる方式で調べ直して、現代の時点から見た当時の日本の政治家や軍人への歴史的な評価を定め直した方が賢明なのではないだろうか
第四には、今度は、戦後の有名な連合軍の裁判についての話になるのですが、これに関しては、「当時の連合軍による裁判は正しかった」という考え方と、その反対に「戦勝国による事後法による裁判なんて最悪だ」という考え方の大きく二つがあるようなのですが、ここで言いたいのは、そういうことではなくて、戦後、70年近く経った現在の日本人としては、連合国側の勝者の原理でもなく、また、かなり愛国的で偏った当時の日本軍的な見方でもない、もう少し冷静な考え方をする必要があるのではないかということです。
まず最初に大切なのは、戦争直後の日本と違って現在の日本には、戦前、戦中のように天皇礼賛的な愛国教育を受けた人はほとんどいないし、また外国への侵略や略奪を当然とするような軍国主義的な見方をしている人もほとんどいないし、その上、かつての連合国だった世界の国々に対して敵意を持っているような人もほとんどいないような状況であるということと、また日本の場合、単に戦争否定の憲法を持つのみならず、実際にここ数十年の間、西側諸国とのかなりがっちりとした同盟関係の中で、時々行われる国際平和維持活動への協力以外は、基本的に自衛のための軍事活動しか一切行ってこなかったというような実績もあるので、こうした状況であるなら昔と違って、もう少し冷静な客観的な形で当時の状況を振り返ったとしても、別に誰かの威信や名誉を傷つけることになるわけでもなければ、また今さら、これだけ国民レベルで仲良くなっているアメリカや中国を初めとする諸外国との関係が、特段にごちゃごちゃするようなことも、ほぼ全くあり得ないのではないかということです。
それでは戦後、もう70年近く経った現在の日本では、そうした一昔前の軍事裁判に関して、いったいどのように考えてゆけばよいのかというと、私の提案はわりと単純で、戦後すぐに、まだ日本が大混乱しているだけでなく、まだ民主主義が、それほど深く根付いたわけでもない状態での連合国の主張優先の裁判に関しては、確かに問題も多いとは思われるのですが、ただ昔の裁判の結果を、今さらどうこう変えるというのはできなくても、せめてもう一度、できるだけ冷静に客観的な立場で、「当時、どの政治家や軍人が何を決め、どう行動したために、その後、いったい何が起きたのか」ということに関して、できるだけ国民の側が主体になって調べ直し、判断し直して、現在の時点から見た当時の日本の政治家や軍人に対する評価を、はっきり決め直した方が賢明なのではないか、ということなのです。
ただその際には、これは単純に現代的な視点から見た歴史認識の修正にすぎないので、もし、それで「こいつは、とんでもない悪党だ」と思われたとしても、そうした感情的な問題はいったん置いておき、常に単純に「誰が何をした結果、どうなったのか」ということについてのみ、できるだけ客観的に明らかにしてゆくことと、それから、そうした評価の対象には一切いかなる身分や人気による差はつけずに、はっきり言うと、分かるところは一番上の身分の人から一番下の身分の人まで、また当時の敵味方に関しても一切関係なく、「いったい誰が何を決め、何をした結果、どうなったのか」(当然、その時代の事情というのは考慮に入れるべきですが)ということについてのみ淡々と調べては評価してゆけばよいのではないか、ということです(これは「誰それが悪い」とか、「良い」というための評価なのではなく、「誰それが何をした結果、こうなったので、そうした失敗や不幸が二度と起きないようにするには、こうするべきだ」ということを知るための歴史の再考なので・・・)。
あと日本の場合、よく言われるのは、「誰が責任者だか、よく分からなかった」とか、「空気が支配していた」とか、「何となく、その場の雰囲気や勢いで決まってしまった」というような言い訳話がよく出てくることが多いようなのですが、はっきり言って、それは当時の責任者の言い訳以外の何物でもなくて、そうした人々の下にいて、政治や軍事でいろいろな指示や命令に従っていた大勢の人々の立場からすると、「そんないい加減な都合で、あんなむちゃくちゃな命令をしたのか」とか、「自分達は信じて、ついていったのに、そんな適当な作戦なんて許せない」ということになるでしょうから、私は、この場合は、どの件に関しても、基本的には「常にかなり責任のある最終決定者がいたはずである」というような見方で、一つ一つ明らかにしてゆくことがとても大切だと思います。
それとそうした責任に関する問題で、特に日本だと昔の武士の伝統で「重い責任の重圧」とか、「責任者は切腹」とか、「何かあったら、責任者をやめさせればよい」というような話にすぐになりやすいのですが、現代はもうそういう時代ではないので、要は何か問題が発生しても、「責任者はやめろ」ではなくて、「国際関係を、いかにして、より友好的な密接なものにしてゆくか」とか、「二度と同じ問題や過ちが再発しないようにするには、どうすればよいか」というような観点から当時の状況を、できるだけはっきりと明らかにした上で、国際的な友好関係の促進や、同じ問題や過ちの再発防止の方に重点を移すような取り組みがとても大切なのではないか、というように考えております。
こうした観点から再度、近現代の日本の歴史の事情をよく調べ直して、もっと単純な人物の評価ができるようにしておかないと、現在のままの日本の歴史教科書を学んでいると、特に昭和前半の頃の話になると、何だか学べば学ぶほど煙に撒かれて、よく分からなくなってしまうようなところがあるので、民主主義国の歴史教科書のあり方としては非常に問題があるのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)