もうかなり後半になっているのですが、現在も、世界中で、「オリンピック」で盛り上がっているようなので、少しだけオリンピックについて、考えてみたいと思います(今回は、時間がないので、箇条書きです)。
1、オリンピックで、メダルを取ることは、確かに立派なことだが、もし、オリンピックでメダルが取れなかった選手がいたとしても、世界、約200カ国の強豪がひしめく中で、オリンピックに出れただけでも、その選手は、ものすごく優秀だし、ものすごく努力した立派な選手だった、というのは、国民としては、素直に認めるべきなので、そうした選手が、多少、意気消沈して、帰ってきても、「あなたは、自分達の国の代表として、本当に素晴らしい、ベストを尽くした」、とか、「あれだけ、強豪がひしめく中で、プレッシャーに負けずに、試合に望んだだけでも素晴らしい」、というような見方は、しっかり持ってあげるのが、彼らを、国の代表として、オリンピックに送った、国民の勤めなのではないか、というように、素朴に感じております。
2、いくら自分の国の選手を応援したいと思っても、単純に考えて、オリンピックでは、次のようなことが言えます。
①10億人の人口の国の選手と、1億人の人口の国の選手に比べたら、10億人の国の選手の方が、より高い競争率の所で勝ち残った選手なので、強いと思われるが、それでは、1億人の人口の国の選手に勝ち目はないのか、というと、たとえ、1億人の人口の国でも、相対的に、その国で、競技人口の多い種目に関しては、10億人の人口の国よりも、強いことは、いくらでもあり得る。
②国民の特性や、地理上の特性で、国ごとに、得意、不得意な種目がある。
③競技には、実力だけでなく、運やコンディションの問題が付き物なので、選手によっては、実力はあっても、メダルに届かないことは、十分にあり得る、ということは、よく知っておいてあげるべきである。などなど・・・。
3、そもそも、オリンピックの目的は、非常に国際間の対立や紛争の多かった時代に、何らかの崇高な理念の下に、できるだけ、たくさんの国々や地域のスポーツ選手が集まって、親善試合をやることにより、国際間の理解や交流の促進を図り、世界平和を実現することであったと思われます。
ですから、本当は、現在のように、かなり国際間の協調がなされるようになった時代には、オリンピックの開催によって、自国の選手が、他国の選手に勝つために、多くの国民が、一致団結することも大切なのでしょうが、基本的には、それよりも、オリンピックという機会に、どれだけ、多くの人々が、普段は、あまり知らない、海外の国々のことや、海外の優秀な選手のことを知り、より親密な交流関係を促進できるか、ということも、とても大切なので、国民の側としては、自国の送り出した選手が、単にメダルを取ったかどうか、ということだけに関心を持つのではなく、オリンピックを通じて、一人一人の選手達が、どれだけ、海外の選手達と、心温まる交流や友情関係を深めたか、ということにも、より関心を持つことが、大切であると思われます。
4、それと、選手の様子を見ていると、世界的にメジャーなスポーツの選手達は、現代であると、オリンピック以外にも、サッカーのワールドカップなど、ほぼオリンピック並みの人気や知名度を誇るような大試合が、時々、あるので、わりと大試合慣れしている、というか、いつもプロとしてのゲームをしている貫禄のようなものを感じるのですが、それが、オリンピックの時ぐらいしか、あまり注目されないような、少しマイナーなスポーツの選手になると、ものすごく緊張する、というか、もっとはっきり言うと、結構、かなり切実に思いを込めて、試合に望む人々が多いように思われるのです。
確かに、オリンピックが始まった100年前ぐらいの時代に、世界中から、多くの国々の代表の選手を集めて、大スポーツ大会をやるとなると、遠い国では、それこそ、みんな船に乗って、はるばる何十日もかけて、やってくるわけですから、4年に1度くらいしか開催できなかったかもしれないのですが、ただ、現代のように、国際交流が盛んで、交通機関が発達している時代には、そんなにオリンピックで盛り上がるなら(収益が出るなら)、4年に一度と言わず、いろいろな口実を設けて、毎年でも、選手も、多くの人々も、一緒に盛り上がれるようなスポーツ大会をやれば、良いように思われます。
そうすれば、選手も、もっと肩の力を抜いて、自分の実力を出しやすいし、楽しめるのではないか、と思われます。
※オリンピックの競技上の理想としては、すべての選手達が、最高のコンディションで、いつも通りの実力を出しきって、プレイした上で、そこを、ルールに基づき(場合によっては、本当は、なかなか優越つけがたいケースがありますが)、正確に審査すると、「この記録である」、とか、「この得点である」、などと公表して、順位を決めるべきなので、本当は、あまり極度の緊張や競争心や疲労を伴うような試合というのは、ちょっと、本来の意味からは、ずれてしまうようなところがあるのではないか、というように、私は、素朴に感じております。
それと、国際間の交流が盛んになってきた現代では、優秀な選手は、世界中、あちこちで活躍するようになってきているので、はっきり言って、「国ごとの競争」というような考え方自体が、だんだん、多少、時代遅れになってきつつあるのです。ですから、それよりかは、たとえ、他の国の選手であっても、単に敵視したり、ライバル視するのではなく、基本的には、同じ地球に生きる友人や兄弟姉妹のような人々なのだ、というような見方だけは、しっかり持つことが、とても大切なのではないか、と感じております。
※関係ありませんが、日本だと、太陽から火を点灯した、「聖火」というと、神道やギリシャ神話の影響もあって、少し宗教的なニュアンスで受け取る傾向があるようなのですが、あれは、英語だと、単なる「the Olympic Flame(オリンピックの火)」、とか、「 the Olympic Torch(オリンピックのたいまつ)」と書いてあるので、要するに、宗教色なんて、全然、ない、みんなで参加して、一緒に楽しみ、盛り上げるための、単なるパフォーマンスに過ぎない、ということです(もし、宗教の意味があることになると、日本と違って、外国では、そうした宗教に関わることには、多くの人々が、非常に敏感に反応するので、おそらく、「Sacred Fire(神聖な炎)」、などと言うと、多くの人々が、宗教的な理由で、参加できなくなってしまったのではないか、と思われます。
Cecye(セスィエ)
2012年8月7日 10:07 PM, コラム