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「陰陽説」について Part 29

国家による言語教育の権威や支配権を、国民が、あまりにも野放しにしていると、いつの間にか、一部の隠れた支配階級のような人々によって、そうした言語教育における権威や支配権を悪用した、全国民に対する、隠れたマインド・コントロールが行われることがあるので、厳重な注意が必要である

 このように、宗教や道徳の中身や、それに伴う言葉の意味に関しても、何でもかんでも、国家が、一律に教科書や辞書や文法で、一元的に押し付けるのではなく、もっと多元的な形で、多くの人々の間で、より自然で楽しい、さまざまな言語や表現によるコミュニケーションの輪が、どんどん広がってゆくような状況にした方が、より望ましいのではないか、ということなのです。

 そうしないと、多くの人々が、全く気がつかないうちに、いつの間にか、いったい、どこの誰が決めたのかも、よく分からないような、一種の「言語教」のようなものが、多くの人々の意識を支配するようになってゆき、気がつくと、どの人も、どの人も、なぜか、特に誰が定めたわけでもないのに、何らかのものを見たり、聞いたりすると、ほぼ無意識のうちに、反射的な拒絶反応や、一方的に否定したくなるような気分になって、何もやりたくないような状況になったり、あるいは、その反対に、何らかの物を見たり、聞いたりするだけで、ほぼ無意識のうちに、反射的に、良いと感じたり、絶対的に肯定したくなるような気分になって、何かやりたくて仕方がなくなるような、言ってみれば、国家の主導する共通言語にまつわる、隠れた意識プログラムによる、多くの人々の潜在意識レベルでのマインド・コントロールが可能になってゆくようなところがあったのです。

 ですから、確かに、実用性の面から見ると、いっけん、多くの人々が、「同じ国の国民であるという感覚を持っている」、とか、「ほぼ同じ共通の言葉で話せる」、というのは、とても良い面を持っているように感じられるのですが、ただ、こうした共通言語の統一の過程において、あまりにも、一元的な形で、「この言葉は、絶対に、こういう意味でなくてはならない」、とか、「すべての言葉は、完璧なプログラムである文法に支配されていて、それを逸脱する言葉は、一切、通用しない」、というような観念を、あまりにも強く押し付けられてしまうと、そうした言語教の弊害によって、気がつくと、いつの間にか、政府の陰に隠れた、いったい、どこの誰とも、よく分からないような一部の人々(学者や役人のような形で、たいてい、選挙で選べないような仕組みになっています)によって、「法律とは、全然、関係ないのだが、この言葉の秘密の意味は、○○にするので、こういうことをする人は、すべて、霊的(異次元的)な形で、死刑にする(みなさんが、無意識のうちに、何も考えられなくなったり、恐怖心を感じるようなものが、たいてい、それに当たっています)」、とか、「この文字や漢字や記号の隠れた意味は、○○にするので、その秘密の指令に基づいて、こういうことをしない人間は、すべて、異次元な形で封印、拷問の対象にするが、それに従う人間には、異次元的に、素晴らしい快楽を与える(よく分からないが、何となく、恐怖を感じて、何も考えられなくなったり、妙な魅力を感じるような内容のものが、たいてい、そうです)」、などというような、この世の法律とは、全然、違った、一種の隠れた「言語教」の支配を受けて、多くの人々が、その国の政府や支配者に対して、非常に従順に、何でも素直に言うことを聞くような状況になってゆくようなところがあった、ということなのです。

 ですから、いっけん、今日の教育行政においては、全く当たり前で、良いこと尽くめのようにすら感じられる、いわゆる、国家の共通言語である国語教育に関しても、あまりにも国家の教育における権威や支配権のようなものを、多くの人々が野放しに認めるようなことをしていると、いつの間にか、多くの人々が、無意識のうちに、自由に考え、行動することを、何となく怖れるようになってゆき、制度的には、自由なのだが、意識的には、何となく閉鎖的で、自己否定的な文化が、根強く根付くようになったり、あるいは、いつまで経っても、機械やロボットのように働くこと自体には、意義を見いだせるが、「生活を楽しむ」、とか、「人生を楽しむ」、というような、自分自身や、他の人々の幸福の実現には、あまり積極的ではないような、つまり、物質的には、豊かだが、精神的には、あまり幸福を感じられないような、いわゆる、万年精神停滞国のような状況に陥ることがあるので、非常に注意が必要なのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 こうした情報を知っている、知っていないに関わりなく、これは、今日の日本人を初めとする、全世界の人々が、これまで長い期間に渡って、ずっと、こうした隠れた言語支配を受けてきたのは、まぎれもない事実だと思われます(よく考えてみると、大した理由もないのに、何となく、無意識のうちに、「考えたくない」、とか、「やりたくない」、と思ったことって、振り返ってみると、意外と多いと思いませんか?)。こういう形で、今日のような、いっけん、平和な民主社会になったとしても、意外と、隠れた恐怖支配って、多いものなんです。

 これを防ぐには、前に述べたように、不必要な国語教育は、最低限にすることと、英語を学ぶための英語学ではなくて、実際に、外国人と気軽にコミュニケーションするための英語の読み書きや会話中心の教育に変える、というよりも、実際に、なるべく多く、外国の人と、楽しくコミュニケーションできるような機会を設けることと(昔と違って、現代の日本には、外国人は、たくさんいますから)、それから、これも前に述べましたが、最低限、必要なものを除いて、貴重な楽しい青春時代に、不必要な大変な負担を強いるような試験は、なるべく減らす、というより、できれば、全部、なくしてしまう(要は、社会に出て、すぐに仕事や生活ができて、幸福に自立できる人間になれればいいだけの話なのですから)、というような対策しか、現在のところ、ないと思われます。

 

Cecye(セスィエ)

2012年6月24日 9:02 PM, 中国思想 / 宗教、道徳 / 政治 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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