ちょっと長いように感じたので、記事を二つに分けました。
②国家が推奨する芸術と、一般市民が楽しむアートやエンターテイメントの間に、あまりに大きな隔たりがある場合には、本当は、「伝統文化の保護」と称する、不当な少数の利益の保護政策の一環であるかもしれないので、注意が必要である
第二には、これは、もっと当然のことになるのですが、多くの人々が、自分の自由意志で喜んで、買って、見たり、聴いたりしているものと、国家が、「これは、素晴らしい芸術だ」、と言っているものとの間に、あまりに大きな隔たりがある場合には、私は、基本的に、それは、一部の人々の偏向した好みや立場を擁護するための、政治的に言うと、ほとんど大した正当性の見当たらないような、少数の利益の保護に当たると思われるので、原則的に、よほどの特殊な事情がない場合には、止めた方がよいのではないか、と思います。
たいてい、こうした時には、「古い伝統文化の保護」、とか、「文化財の保護」、というような、それらしい理由が、いくらでも出てくるようなところがあるのですが、ただ、これは、よく考えてみないと、なかなか分かりづらいのですが、もし、そのような形で、その国や地域に根ざした、伝統文化や文化財として、保護するのであれば、基本的には、それは、一部の限定された特殊な人々ではなく、その地域に住む、多くの人々の直接の同意が必要なのではないか、というように、私は思うのです。
その理由は、単純なのですが、もし、その伝統文化や文化財が、その地域の多くの人々の仕事や生活に深く根ざしたものであるならば、当然、それは、ほとんど何の反対もなく、多くの人々の自然な賛同が得られるのでしょうが、そうではなく、それが、単なる一部の人々の利益や仕事の保護にしかならないのであれば、おそらく、そう簡単には、多くの人々の支持が得られないのではないか、と思われるからです。
そうした意味で、たとえ、古い伝統文化や文化財の維持のためであっても、一部の人々だけが、勝手に、いろいろと決めてゆくような文化行政のあり方は、本当は、非常に問題なのではないか、というように、私は考えております。
普通の一般市民が、すぐに苦手意識や、分からない感覚を持ちがちの芸術の分野であったとしても、あまりにも多くの人々のニーズや美的感覚を無視した文化行政が行われている場合には、単なる芸術の多元化とは違った、その国や地域における、ファッションやデザインや創作物の大混乱が、その国の中央の芸術界の周りに、無数に氾濫し続けるような状況になることがあるので、注意が必要である
このように、芸術の分野というのは、ともすれば、普通の人々からすると、はっきり言うと、いったい、どこの誰とも、全く、よく分からないような、一部の「プロ」や「専門家」と呼ばれるような人々の言いなりや、やりたい放題になってゆきやすい、かなり特殊な分野である、ということなのですが、ただ、本当は、民主主義国家の場合には、たとえ、ものすごく権威のある芸術のプロや専門家のような人々がいたとしても、民主主義の原則は、ある程度、しっかり守るようにしておかないと、気がつくと、そうした国や地域では、あっちでも、こっちでも、他の国や地域の人々から見ると、何が何だか、訳の分からないような、奇妙キテレツなファッションやデザインや創作物が溢れかえるような事態になるにも関わらず、なぜか、その国や地域の中央では、多くの人々が、大して、きれいとも、美しいとも思えないような、一群の「芸術作品」を量産するような「芸術界」が、しっかり君臨して、そして、どんなに優秀な個人が出てきても、表の世界では、全然、活躍できないように、陰ながら、こっそり嫌がらせや閉め出しを行い続けようとするような、妙な事態になることもあるので、注意が必要なのではないか、ということなのです。
要するに、ここで言いたいのは、基本的に、単純な「多元論」的な考え方で良いはずの「芸術」の分野であるにも関わらず、そこへ、「一元論」や「二元論」的な発想で、多くの人々のニーズや感覚を、ほとんど無視するような形で、一部の人々が、勝手に、ものすごい権威や立場を作って、「これは、芸術と呼べるが、これは、芸術ではない」、などと、いくらでも、勝手に横から決めつけられるようにしておくと、気がつくと、多くの人々の普通の感覚からすると、全く意味不明で、全く美しいとも、きれいとも思えない上に、全く何の役にも立たないような、「芸術」と称する、訳の分からないものが、公立の美術館に、たくさん飾られているのに、その美術館は、いつも閑古鳥が鳴いているような事態になったり(いつも、たくさんの市民が訪れているなら別ですが・・・)、あるいは、よく考えてみると、多くの人々のニーズや美的感覚から、かなり外れたものが、「最高のアート」と称して、多くの人々が、全く知らないうちに、国民の税金を使って、高値で取引されたり、保護されたりして、その国や地域の多くの人々の美的感覚や感性を、かなり大きく歪ませるような事態になることもあるので、非常に注意が必要なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)