⑥いにしえの神仏や聖者が定めたとされるような、「善悪」であったとしても、よく調べてみれば、昔の為政者の都合で定められたものや、昔の時代性や地域性を根強く反映した、現代であると、完全に時代遅れのものも、たくさんあると思われるので、時折、「もし、現代に、その神仏や聖者がいたら、いったい、どういう判断をするのか」、ということに関しては、かなり真剣に考えてみて、より「現代」という時代に合った、善悪というものを検討し直す必要がある
第六には、この辺りから、もう少し宗教的な内容について、考えてみたいと思うのですが、これは、よく宗教において、「神の掟」、とか、神の定めた「律法」や「戒律」などと言われているような内容になるのですが、要するに、いにしえの時代に、神仏や預言者や聖者達が、「これは、やってよいが、これは、やってはいけない」、とか、「これをやることは、大変、良い」、とか、「これをやるのは、絶対にいけない」、などと教えたことに基づいて、その社会や人々の集団の中における、「善(良いこと)」と「悪(悪いこと)」を決めて、それによって、人間の善(よ)し悪しを決めてゆくような、いわゆる、「善悪二元論」と呼ばれる価値観があるのですが、これについては、大きく二つのことが言えます。
まず第一には、これは、大変、残念な指摘になるのですが、実は、前にもキリスト教や仏教のところで述べたように、たとえ、世界的に有名な大宗教の説く、「善悪」であったとしても、実際には、本当の神仏や預言者や聖者ではなく、その時代の、単なる為政者が、自分達の都合で定めた善悪というのも、実際には、結構、数多くあるものなのです。
それゆえ、そうした、昔の宗教における善悪というのは、現代の多くの人々が、心から真剣に信じて、実践しようと思うほど、それほど、ものすごい神仏の意思であるというわけでも、また、それほど由緒正しい真実の教えであるというわけでもないようなケースが、実際には、結構、たくさんあるのではないか、ということです。
第二には、これは、前から何度も述べてきていることなのですが、要するに、そうした宗教的な「善悪」というのは、それが定められた当時の地域性や時代性というものを、かなり根強く反映するものなので、実は、そうした宗教的な善悪が言われる、そのそもそもの背景や前提条件というものが、あまりにも大きく違ってしまうと、その宗教を説いた、いにしえの神仏や預言者や聖者自身が、もし、現代にいたとすると、はっきり言うと、全く正反対のことを言うことすら考えられるような状況というのも、本当は、結構、よくあることなのです。
ですから、これは、ほぼすべての宗教について、言えることなのですが、「もし、その宗教の神仏や聖者が、現代に生きていたとしたら、いったい、どのような理由に基づいて、どういうことを、善悪と言うと思われるのか」、ということに関しては、こうした宗教的な善悪を考える際には、どうしても、時折、かなり真剣に考え直さなくてはならないようなところがある、ということは、よくよく、しっかりと理解しておくべきなのではないか、ということです。
ですから、現代的な視点としては、たとえ、いにしえの神仏や聖者が説いた、絶対に正しい「善悪」と思われる内容であったとしても、そうした「善悪」が定められた、そのそもそもの根本的な理由や目的というものについては、時々、真剣に考え直してみて、そして、もし、現代の自分達の置かれた時代性や地域性に照らして、「これは、やはり、善であると思われるが、これは、もうそれほど悪と言わなくてもいいのではないか」、とか、「これは、現代であれば、もう個々人の自由に委ねて、宗教としては、せいぜい、その行き過ぎや過ちについてのみ警告すれば、十分なのではないか」、などというように、何でも「神の言葉」、「神の意志」、などと言わずに、もう少し冷静な客観的な態度をとった方がよいのではないか、ということです。
ですから、はっきり言うと、もう昔の時代のような、絶対的な善悪や、それに基づく戒律や律法や罰則というのは、現代の時代では、もうほとんど時代遅れになってきているのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)