5、肉体的、精神的に、あまりにも過酷な我慢や忍耐を強いるような仏道修行に明け暮れた人々の中には、死後、大往生どころか、生前の溜まりに溜まった潜在欲求の充足のために、わりと短期間のうちに、あちこちに何度も生まれ変わってきては、仏道修行とは、全く正反対の遊び人や娼婦や、お金儲けや犯罪稼業などの、この世的快楽を求め続ける人生を送るような事態になることもあるので、注意が必要である
それから第五には、これは、ちょっと、あまり大きい声では言いたくない話になるのですが、実は、仏教には、結構かなり大きな問題があって、それというのは、これは霊的な生まれ変わりの実態が分からないと、なかなか分かりづらい話になってしまうのですが、これまでの仏教を代表とするような、いわゆる「修行」と称する一種の「我慢比べ大会」、というか、一種の「最高我慢忍耐訓練」(ゆっくり読まないと意味が分かりませんね・・・)のようなことを行う宗教というのは、死後、結構、ごちゃごちゃと大変な状況に陥る人々が多かったために、非常に意外なことに地球の「高級霊界」と呼ばれる所では、かなり評判が悪かったということなのです。
つまり、仏教の僧侶になると、一生、俗世間とは、かなり距離を置いて、礼拝、掃除、洗濯、読経、瞑想、伝道と、とにかく、いろいろと結構、大変なことを、ひたすら地味にやらなくてはならないような状況になってしまうわけなのですが、この後が問題で、こうした人々は、この世的には亡くなると、「ああ、あの人は、一生、素晴らしい御仏(みほとけ)の道を歩まれたので、きっと大往生(だいおうじょう)に違いない」とか、「ああ、あの方は、死後、素晴らしい悟りの世界に行かれたに違いない」などと言われることが非常に多いのですが、ところが霊的に見ると、これがかなり違っていて、そうした人々というのは、この世的な面はともかくとして、霊的というか、潜在意識的には、「本当は、いろいろやりたかったことがあったんだけど、自分は僧侶だから、やっぱりダメだよな〜〜〜」とか、「執着なんて、何も感じないように一生懸命、努力したんだけど、本当は、いろいろ一度でいいから、やってみたいことがあったんだよな〜〜〜」などというような具合に、結構、いろいろな意味で、かなり強い潜在欲求が溜まりに溜まっているような状況になっていることが、非常に多かったのです。
そうすると、死後の世界では、そうした潜在願望が、かなり前面に出てくることになるので、 地上の世界の多くの人々の思い込みとはかなり違って、「一度でいいから、どこかで、おいしい物を腹一杯食べる体験がしてみたい」とか、「もう厳しい修行は嫌だ。どこかで自由気ままに、本能のままに、やりたいことをめいっぱいやってみたい」などという具合に、仏や菩薩のいる高い天界に行くのではなく、肉体的に死んだ後、わりとすぐさま、前の僧侶の生活とはかなり正反対の人生、例えば、とにかく気楽な生活のできる普通の庶民の人生とか、着の身着のままの風来坊の人生とか、恋もセックスも数多しの遊び人や娼婦の人生とか、殺生や盗みをやり放題の犯罪まがいの人生を送るような事態になることが、非常に多かったということなのです。
ですから、地上の世界における多くの人々の思い込みとはかなり違って、表面には全く出なくても、そうした、わりと我慢や辛抱の多い仏道修行に明け暮れた人々の来世というのは、意外なことに、そのまま、まっすぐに高い天界に行くということはあまりなくて、そうではなく、そうした仏道修行とは、かなり正反対の自由気ままな生活や、欲望の追求に明け暮れるような生活に惹かれて、わりと短期間のうちに、地上の世界に生まれ変わってきては、何度も何度も、そうした仏道修行とは正反対の、この世的快楽を求める人生を送ることが非常に多かった、ということなのです。
つまり、これは大変、残念な指摘になるのですが、実は、霊的に見た場合には、仏教の僧侶のように肉体的、精神的に、あまりに過酷な我慢や辛抱を強いるような人生を送った場合には、死後、悟りの世界に行くのではなくて、その反対にそうした人生の反動で、わりと短期間のうちに何度も何度も地上の世界に舞い戻ってきては、「今度は、あの欲望の追求・・・」、「次は、あの願望実現の達成・・・」などという具合に、次々とたくさんの生まれ変わりを繰り返すことになってしまうような、いわゆる無数の迷いの輪廻の中に、どっぷりと浸かるような事態になってしまうことがあるので、霊的に見ると、結構、危険なところがあったということなのです。
仏教に関して、特に問題が多いと思われる内容に関しては、大体、以上のような五つのことがあげられるのではないか、と思われます。
Cecye(セスィエ)