④ケース4、イエスの前に、回心前のパウロがやってきた場合のイエスの対応について
第四には、これも考えてみれば、非常に不思議な話なのですが、イエスの目の前に、もし、回心前のパウロ(ユダヤ教の名前だと、「サウロ」)がやってきたら、どうなったのか、ということなのですが、聖書的には、その時に、パウロが、突然、パッと失明して、馬から落ちると、その後、イエスの手当てで治療されて、彼の弟子になった(もしくは、イエス自身が、危害を加えられた)、というようなシナリオの展開になったと思われるのですが、ところが、この場合には、その後のパウロの話の大伝道の話は、キリスト教の聖書の中からは、おそらく、完全に消え去ることになったのではないか、ということなのです。
もし、イエス在世中に、パウロに会っていた場合は、おそらく、パウロは、イエスの十二弟子には入っていないし、また、その後のパウロの大伝道の話もなかったのではないか
それというのは、おそらく、イエスという人が、直接、パウロに会った場合には、ほぼ確実に、彼の性質を見て、彼の直弟子の十二弟子には入れていないのではないか、と思われるからです。
その理由は、とても単純なのですが、これは、どんな霊的な修行や、あるいは、武術などの、この世的な修行のようなものでも、ほとんど同じなのではないか、と思われる内容になるのですが、要するに、師の教えた内容を、誤解のない形で、わりと素直な形で受け入れて、自分自身のものとして、十分にマスターした上で、他の人々にも、同じように教えたり、伝えたりできる、というような人でない場合、こうした霊的なマスターの直弟子のような人間には、絶対に採れないからなのです。
その意味で、当時のパウロという人物は、「ちょっと奇蹟が起きたぐらいで、パッと師の教えを曲げる」、「人の話を、しっかり理解して、聞こうとしない」、「信仰、信仰と言って、自分の意見を、一方的に他の人々の押し付けようとする」、などというような点において、おそらく、イエスの立場からすると、「ちょっと彼には、他の人の指導は、無理かな?」、というような判断に、すぐになったのではないか、と思われるのです。
ところが、この後が、不思議で、キリスト教の歴史では、こうした「パウロ」という人物が中心になって、当時のパレスチナ以外のローマの広大な地域にまで、積極的にキリスト教の大伝道を行った、ということになっているのですが、これは、私の素朴な意見なのですが、現代でも、こういうキリスト教の伝道というものを、私も、何回も見たことがあるのですが、たとえ、2000年前であったとしても、こういう性格の人物が、それほど大勢の人々を、キリスト教に回心させるような大伝道が、本当にできたのか、というのが、非常に疑問に感じてしまう、ということなのです。
確かに、宗教的な伝道には、一途な信念や理想や行動力のようなものが必要なことは、私も、ある程度は、よく分かるのですが、ただ、いくら当時のローマであったとしても、「そういう人物に、そんな大伝道できたのかな・・・」、というのが、私には、率直に申し上げて、あまり信じられない、ということなのです。
ですから、これは、私の仮説になるのですが、このパウロの大伝道の話は、おそらく、後世にでっち上げられた、ほとんど、デタラメの話で、この元々のルーツになる話は、全く別の誰かの大伝道の話、もしくは、全く別の「パウロ」と呼ばれる人物の話だったのではないか、というように、率直に感じる次第です。
いくら当時のイエスが、傑出した霊的なマスターであったとしても、お話の中だけの話なら、街中の人々に片っ端から声をかけて、奇蹟を起こして、彼の信者にできたのかもしれないが、現実には、古今東西、そんな訳の分からない、奇人変人的な伝道をして、成功した人物なんて聞いたことがないので、本当は、かなり怪しい作り話だったのではないのか
こうした四つの観点から考えると、非常によく分かると思うのですが、要するに、よくよく冷静に考え直してみると、聖書で述べられているような、イエスの話というのは、たとえ、彼が、どれほど優秀な霊的なマスターのような人物であったとしても、ちょっと、あまりにも現実離れした、ぶっ飛びすぎた話が多すぎて、今日的な感覚では、映画やドラマの中なら、確かに、いくらでもあり得そうだけど、現実には、かなり怪しいのではないか、と思われることと、それと、そうした当時の状況において、元々のイエスという人物が、片っ端から、自分の会った人々に、「信じなさい」、とか、「私についてきなさい」、なんて、三年間も、あっちこちで言い続けて、奇蹟を起こし続けたなんて、普通、あり得ないのではないか、というのが、私の率直な感想になるのです。
ですから、これは、霊的な指導者をやったことのある人や、あるいは、会社の経営に携わったことのあるような人なら、おそらく、すぐに分かることなのではないか、と私は思うのですが、普通、どんなに優れた霊的なマスターや経営指導者のような人であったとしても、たいてい、いろいろな人に接した時には、「いつもいつも、自分が側にいられるわけではないから、大まかな方針や、仕事(修行)のやり方は、しっかり教えておくから、後は、その場で、いろいろ自分の頭で考えたり、自分の信頼できる人々と、よく話し合って、決めてください」、とか、「すぐに信じるなんて、乱暴なことは言わずに、まずは、相手の話を、よく聞いたり、現実の状況を、よく調べたりした上で、その上で、よくよく、これは、事実、とか、真実と受け入れられることについてのみ、冷静に受け入れて、行動するように心掛けてください」、とか、「信念を持つことも、とても重要ですが、それと同時に、慎重さや、よく考え抜くことも、とても大切なことです」、というような話を、信仰の話よりも、熱心に、多くの人々に、たくさん語ったのではないか、と思われるのです。
Cecye(セスィエ)
2012年1月29日 5:41 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観