3、他の宗教と比べて、キリスト教ほど、生前の信仰の話と、死後、多くの人々が体験する霊界での体験が、あまりにも大きく食い違う宗教はない、というような、非常に厳しい霊界での現実がある
第三には、これは、霊的に見ると、かなり危険なことになってくるのですが、実は、キリスト教ほど、多くの人々が、死んだ後に、「生前の信仰の話と、死後の現実が、あまりにも大きく違う」、と、多くの人々に言われる宗教はないのではないか、というほど、結構、数多くの人々が、「そんなことなら、もっと自由に生きたのに・・・」、とか、「本物のイエス様と、生前のキリスト教のイエスのイメージが、あまりにも違いすぎる」、とか、「こんなことなら、教会の言うことなんて、あんなに熱心に信じなければ良かった」、などと言うような事態になっていることが、非常に多い、ということなのです。
これは、少し分かりづらいと思うので、もう少し具体例をあげて、説明したいと思うのですが、例えば、生前、「イエス・キリストは、こんな人だった」、と聞いて、一生懸命、自分も、そうなれるように努力していた人がいたとすると、そうした人が、いざ死んだ後に、霊界の本物の「イエス」と呼ばれる人と会ってみると、「そんなに堅苦しい、小難しいことを言う人では、全然、なかった」、とか、「あまりにも、自然体で、自由な考え方をする人なので、びっくりした」、とか、「信仰、信仰というよりは、現代のことであっても、科学や政治や経済のことや、あるいは、事細かな家庭の話や、日常の話題に至るまで、結構、フラットによく知っているので、驚いた」、というような話が多かったりするようなのです。
それというのは、キリスト教徒の人が、死後、何とか、霊界の天国に上がれるようになった際には、その後、結構、わりと気軽な形で、本物の「イエス」と呼ばれる人物に会えるケースも多いのですが、その場合には、たいてい、非常に大きな愛の感覚であるとか、非常に大きな許しの感覚のようなものは感じることが多いようなのですが、ただ、普通に話をすれば、地上の世界の仕事の話でも、あるいは、家事や子育てのような話でも、わりと何でも通じることが多いので、たいていの人は、なんだ、「イエス・キリスト」と言えば、ものすごい雲の上の人と思っていたけれど、実際に会ってみたら、「そんなに、堅苦しい感じの人ではなかった」、とか、「信仰とか、罪とか、戒律なんて、全然、言わないし、わりと自然体で、いろいろな話題の話をする人なので、すっかり驚いた」、というような人が、非常に多いようなのです。
それと、これも、ものすごく驚かれる人が多いような内容のようなのですが、とにかく、死後の世界に行くと、生前、あれほど熱心に「信仰」、「信仰」と言っていたのに、それが、ほとんどなくて、「前から霊界にいる人の話を素直に聞いて、とにかく、強いこだわりは捨てて、できるだけリラックスして、過ごすようにしなさい」、とか、「罪とか、戒律とか、許しなんて、もう考えなくてもいいから、他の人を責めないのと同じように、とにかく、自分自身のことも、なるべく責めずに、霊界の指導者(たいてい、ちゃんとした霊界には、一人一人に、そういう、ちょっとした責任者みたいな人がついています)の教えに従って、できるだけ幸せな心境で過ごしてください」、とか、「ここは、天界なので、あまり努力、努力というような思いは出さずに、常に、自分のできる範囲で、最大限の愛の行為をするように心掛けてください」、などというような話ばかり、あっちに行っても、こっちに行っても、よく聞かされるような状況になりがちである、ということです。
ですから、地上の世界だと、もう宗教というと、すぐに「信仰」、「努力」、「自分に打ち克つ」、「耐えざる精進」、「許し」、「忍耐」、などというような話を聞かされることが多いのですが、それが、霊界の天国のような世界に行くと、もう打って変わったかのように全く変わってしまい、そうではなく、常に、リラックスすることや、悦びの心で生きることや、自分を責めたり、傷つけたりせずに、できるだけ寛容に、多くの人々を愛し、また、自分自身も愛することの大切さを、こんこんと説明されることが、非常に多い、というような、大きなギャップがある、ということなのです。
※ただし、これは、キリスト教に限らず、現在の地球上の宗教に関しては、どれもほとんど同じようなことが言えるようなところがあります。
Cecye(セスィエ)
2012年1月8日 9:12 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観