多くの人々の本音の感覚としては、自分の付き合う相手との間に上下の感覚が強ければ強いほど、不自由やストレスやつまらなさを感じていることが多く、またその反対に自分の付き合う相手との間に上下の感覚が弱ければ弱いほど、より自由で気軽な楽しい感覚を感じていることが多いものである
つまり、こうした五つの例からもよく分かるように、実は現在の社会の建前や常識とはかなり違って、「自分より絶対的に上の偉い存在がいるので、常にその人達にペコペコ頭を下げて気を使って、いろいろ尽くすような人間関係を築かなくてはいけない」とか、「自分よりも絶対的に下の存在がいるので、常にその人達を差別して見下し、馬鹿にするような態度をとったり、自分とは完全に違う存在のように見るような態度をとらなくてはいけないのだ」などと考えていると、現実には多くの人々は、ほとんど何の安心感も幸福感も感じることが出来ないというような大きな問題点があったということなのです。
つまり私達の社会では、「偉い人の言う通りに従うことは、とても幸せなことなのだ」とか、「こんな偉大な人と一緒にいるのは、とても光栄なことだ」とか、あるいは「自分より目下の人をいじめて、ストレスを解消するのは、とても気分がいい」とか、「自分の意のままに人を動かすのは、とても楽しい」などというような価値観というか、一種の幸福感のようなものが幅を利かせているようなところがあるのですが、ところがよく考えてみると、そうした幸福感というのは、言ってみれば、何らかの我慢を前提とした偽物の幸福、もしくは誰かの不幸を前提とした偽物の幸福なのであって、本当は単なる幸福感の錯覚に過ぎないようなところがあるということなのです。
ですから私は、多くの人々の実際の生活の様子を観察してみる限り、人間が本当の幸福を感じている時には、たいてい相手との真の平等感であるとか、真の一体感を感じることによって心からの悦びを感じていることが多いと思うし、またもちろん社会的には、いろいろな制約があるのは確かに事実であるのですが、多くの人々の実際の本音の感覚としては、自分の付き合う相手との間に上下の感覚が強ければ強いほど、不自由やストレスやつまらなさを感じることが多いし、その反対に自分の付き合う相手との間に上下の感覚が弱ければ弱いほど、より自由で気軽な楽しい感覚を持っていることが多いのではないか、というように率直に感じているのです。
それゆえ、こうした事実から得られる結論としては、どんなに頭の良い優秀な人であったとしても、また、どんなに仕事のできるお金持ちの人であったとしても、それから、どんなに美しい感性の優れた人であったとしても、「自分より上に自分よりも絶対的に上の存在がある」とか、「自分より下に自分よりも絶対的に下の存在がある」などというような人間や生き物や、あるいは霊的な存在との間の上下の感覚を強く持っているような人というのは、なぜか、ほぼ絶対と言ってもよいほど本当の幸福感を感じることができないというような非常に変わった幸福原則のようなものが、この宇宙には存在しているのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年8月17日 9:12 PM, 人生観、世界観