いつの時代も、その国や地方の権力者の人々が、できるだけ簡単に多くの人々を素直に従順に従わせるために多用してきたのが、この世界には、愚かな普通の人々には全く分からない、一部の学識のある偉い人々にだけ分かるような、ものすごい価値がある、というような一種の「権威信仰」のようなものを、多くの人々に心の底から持たせるようにすることであった
そうすると、ここで一つのトリックが成り立つことになるのですが、普通の多くの庶民としては、「毎日毎日、自分達が汗水垂らして働いて、彼らにたくさん税を納めていないと、いつ何をされるか分からない」などというような形で、本当はそうした権力者に対して、かなり強い恐怖心を感じながら従っているようなところがあるのですが、ところが、そうした権力者の人々の側としても、自分達が、そうした普通の人々と全く同じ血の流れている人間だと思われていると、多くの人々の恨みや怒りを買ったり、あるいは、飢饉とか、天変地異というような何らかの拍子に多くの人々に、すぐに反乱を企てられることがあるので、とても怖い、という恐怖心があるものなのです。
そうすると権力者の側の人々としては、そうした多くの一般の人々と比べて、「自分達は生まれながらにして、あらゆる点で多くの普通の人々とは、決定的にものすごく違うのだ」というような一種の畏怖心、というか、尊敬心を勝ち取りたいと、どうしても考えるようになるのですが、そこで、どこの国でも必ず伝家の宝刀のように登場してくるのが、今、ここで述べているような、いわゆる普通の大多数の人々には、そう簡単には、決して理解できないが、一部のエリートのような人々にだけは、はっきり分かると言われるような、そうした、ものすごい権威のようなものがある、というような一種の「権威信仰」のようなものであったということなのです。
そして、そうした、はっきり言うと、多くの人々から見ると、心の中の本音としては、大して何の価値も魅力も感じられないようなものに対して、さもものすごい価値や魅力があるのだ、と思い込ませるための材料の一つとして、日本でよく多用されていたのが、今回取りあげたような、いわゆる「和歌」や「俳句」といった詩歌のようなものであったということなのです。
※「俳句」は、和歌とは、少し立場が異なるのですが、日本の国語の教科書だと、和歌とほとんど同じような権威を与えて、教えてくるようなところがあるので、ここでは、俳句も同じような扱いで述べています。
Cecye(セスィエ)