今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。
宇宙の原初の段階における創造の経緯③―この宇宙を二分するような二大勢力の対決と、その結果としての宇宙の度重なる崩壊と消滅 Part 2
この結果が、非常に問題になるのですが、こうした、結局、行き着く所まで行き着いていった二つの対極に位置するような生命達の一派というのは、やがて、必ず、この宇宙の歴史のどこかの時点で、お互いに遭遇し、ぶつかり合うようになるはずなのですが、その際に、一方は、あくまで愛や調和に満ちた生命同士の関係を志向するのに対して、一方は、常に闘争や略奪の観点から見た生命同士の関係しか考えられないので、そこで、必然的に、それぞれの側の信じる価値観、もしくは、それぞれの側の絶対に受け入れたくない価値観の立場の相違を巡って、ほとんど永遠の平行線をたどり続けるような二元的な対立や闘争というものが、この宇宙の歴史では、必ず、勃発することになるのです。
ところが、その結果は、最初から、ほぼ確実に決まっていて、一方は、愛と調和の立場を志向することから、常に、そうした対立や戦争においては、一方的に不利な劣勢な立場に立たせられることになり、その反対に、一方は、闘争や略奪の立場を志向することから、常に、そうした対立や戦争においては、一方的に有利な優勢な立場に立つ、というよりも、はっきり言うと、そうした対立や戦争においては、ほぼ確実に、いつも勝つ側に立ち、そして、そうした闘争や略奪によって得た、愛や調和を志向していた生命達を、ほとんど半永久的な奴隷的立場に置いて、こき使ったり、あるいは、家畜にして、彼らの食糧にしたりするようなことを、いつも始めることになったのです。
ここで問題なのは、これは、霊的、あるいは、宇宙的な波動科学の観点から見れば、すぐに明らかになることであるのですが、一方の愛や調和を志向するような生命群というのは、基本的に創造性や愛の観点に立っているので、それゆえ、彼らの生命活動というのは、マクロの視点で見ると、その宇宙全体を、明るく光やエネルギーで満たしたり、あるいは、悦びや豊かさで満たすような、つまり、その宇宙自体をあらしめたり、存続させ続けるための非常に重要な役割を果たしているのですが、もう一方の闘争や略奪を志向するような生命群というのは、基本的に破壊や略奪の観点のみに基づいた生命活動しかしていないので、それゆえ、彼らのやりたいように、すべてやらせていると、やがて、宇宙全体が、すべて真っ暗になって、一切の光もエネルギーもないような、完全にめちゃくちゃで混沌とした、苦痛や恐怖のみに満ち溢れた真っ暗闇の世界になっていってしまう、ということなのです。
それゆえ、こうした愛や調和を重んじる生命群と、その反対の闘争や略奪を好む生命群の間の関係というのは、実際に対立や戦争が勃発すれば、ほぼ確実に、後者の闘争や略奪を好む生命群に、前者の愛や調和を重んじる生命群が破れる、というような歴史の結果になるにも関わらず、そうした対立や戦争の後には、そもそも両者が活動していた、その宇宙全体が、結果として、完全に崩壊し、消滅してしまう、というような悲劇の歴史を、どうしても必然的に経ることになっていった、ということであるのですが、そうした宇宙全体の崩壊や消滅の後、しばらくの間は、完全に真っ暗闇の混沌としたカオスの世界が、えんえんと続いてゆくことになるのですが、やがて、再び、意識を取り戻した、この宇宙の創造主の前身に当たるような存在によって、もう一度、ゼロから、先ほど述べたような、この宇宙の生命の進化と発展のプロセスが、それこそ何度も何度も、天文学的な回数、えんえんと繰り返され続けた結果、最後に現われてきたのが、今日、私達が活動している、この宇宙の世界であった、ということなのです。
それゆえ、実は、こうした生命の試行錯誤や自由の実験の結論としては、いくら何の制約もない、何の制限もないような、すべての自由という自由を体験できるような、この宇宙の世界であったとしても、やはり、他の生命を傷つけたり、あるいは、自分自身の生命を傷つけるような自由の選択は、基本的にやめるべきだし、また、この宇宙全体を根本的にあらしめている「根本創造主」の意思には、基本的に従うようにしておかないと、結局、どこかに不幸な生命が出たり(それは、結局、別の姿の自分である、ということなのですが)、あるいは、この宇宙全体が崩壊し、消滅してしまうような危険性があるので、お互い、気を付けるようにしよう、というような約束事というか、決まり事のようなものが、やがて、この宇宙には、だんだん成立するようになっていった、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年6月17日 9:03 PM, アセンション・シリーズ 4