4、現在の地球の主だった宗教では、信仰にしても、愛や知恵にしても、救済にしても、誇大宣伝や効能書きが多いわりには、実質的な中身が、あまりに少ない上に、現代の時代には、すでに役立たない内容が、あまりにも多過ぎる
第四には、これも、高次元の世界では、非常に評判の悪い話であるのですが、とにもかくにも、この地球上の主だった宗教における、非常に重要なキーワードになるような教えの内容、つまり、「信仰」や「愛」や「知恵」や「救済」というのが、薬で言うと、「これは、何々に効く」、とか、「これは、こんなものすごい効果があった」、というような、いわゆる、誇大宣伝の薬効、というか、効能書きばかりが、ものすごいものが多くて、それでは、そうした教えの本当の意味は、何なのか、とか、実際には、何を考えたり、やったりすればいいのか、ということが、あまりにも抽象的で曖昧、というか、もっとはっきり言うと、ほとんど何も説明していないようなものが、非常に多い、ということなのです。
1、宗教における信仰では、細かな理論や実践の部分の説明を省いて、いきなり、強い信念を持つことや、絶対、疑わないことを強制してくることが、非常に多い
例えば、「神仏を信じる」、ということであれば、そうした信仰という行為をすると、「こんな、ものすごい効果がある」、とか、「それによって、偉大な救いが得られるのだ」、というような説明が、宗教では、よくあるのですが、それでは、「その信仰というのは、一体、何なのか」、とか、「その信仰を実践するには、一体、どうすれば良いのか」、というような疑問に対しては、「とにかく、信仰することが、大事なのです」、とか、「これは、実際に信じてみないと、その素晴らしさが、よく分からないのです」、などというように、その細かな理論や実践の方法は、まるっきり、すっ飛ばして、とにかく、信じて、実践してみることを勧めるようなケースが、非常に多い、ということなのです。 ところが、これには、深い問題があって、もし、こうした形の宗教に、あまり深く考えずにのめり込んだ場合には、いったん、そうした宗教に入ってしまった後には、なかなか、冷静に、自分自身の客観的な状態を考え直したり、理解するようなことが、非常に難しくなってしまうのと、それから、こうしたケースの場合、いくら他人が、横から、いろいろな疑問やクレームをさしはさんできても、当の本人としては、なかなか耳を貸さないようなケースが、非常に多い、ということなのです。
2、確かに、神仏や他の人々を愛することは、とても楽しい行為だが、そうした愛の行為が、確かな実りを結ぶようにするためには、それなりの知恵やバランス感覚を持つことも、非常に重要になってくる
これと同じようなことは、「他の人を愛しなさい」、とか、「神を愛しなさい」、というような教えにも見られるのですが、要は、こうしたケースの場合だと、確かに、どんな人であっても、他の人を、心から愛したり、神仏を、心から愛するような行為に浸ることは、とても楽しいと思うのですが、ところが、みなさんもよくご存知のように、こうした形で、他の人や神仏を心から愛するような行為が、大好きな人に限って、周りから見ると、それ以外の他の人に対して、妙に冷たかったり、物事を深く調べたり、考えたりするようなところが弱かったり、あるいは、日頃の仕事や家事を怠ったりして、他人に迷惑をかけても、何とも思わないようなところがあったりするものなのです。
これは、おそらく、愛の行為における客観的な知恵やバランス感覚が、不足していることが、その主な原因であると考えられるのですが、ところが、ひとたび、こうした愛の行為が、宗教的な信仰に結びついてしまうと、そうした欠点を、どんなに周りの人が指摘したとしても、そうした宗教に深くはまっている人は、なぜか、ほとんど、そうした欠点の指摘に対して、あまり耳を貸さないことが、非常に多い、ということなのです。
3、現在の宗教では、神仏の神聖さや、偉大さや、功徳の素晴らしさについての説明は、非常に豊かでゴージャスなのだが、肝心要のその知恵の中身に関しては、非常に希薄で、現代人に役立つような内容は、非常に少ない
次には、「知恵」ということについて、考えてみたいと思うのですが、私が、客観的に、地球の宗教を観察する限り、とにもかくにも、この地球の宗教における知恵の特徴というのは、「だから、ものすごく偉大なのだ」、とか、「だから、ものすごく神聖なのだ」、とか、「だから、ものすごい功徳があるのだ」、というような、そうした知恵における効能書きばかりが多くて、肝心要の、そうした知恵自体の中身が、あまりにも希薄、というか、実際問題として、現代人に役立つような内容が、ほとんどないのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年5月17日 9:33 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観