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現在の地球の主だった宗教は、創造主や光の存在達の権威を利用して、多くの人々を縛り、操るための単なる支配の道具になっている Part 4

3、たとえ、どんなに偉大な聖者であっても、たいてい、普通の人間と、それほど大差ないような普通の生活を営んでいるものであるが、それを脚色して、あまりに非現実的な形で神聖視するようになると、巷の宗教によくありがちな願望成就や罪穢れの許しを専門に行うような、単なる偶像崇拝になってしまうことがあるので、注意が必要である

 第三には、これも、非常に問題が多い内容なのですが、例えば、非常に偉大な聖者のような存在がいたとしても、その人のことを、身近な立場で見ていれば、はっきり言って、食事をすることもあれば、お風呂に入ることもある、などというように、たいてい、普通の人とあまり違いのないような生活をしていることが多い、ということなのですが、ところが、これを脚色して、「あの偉大な聖者は、いつも座って、じっと動かずに、神聖な瞑想だけを続けておられる」、とか、「あの偉大な聖者は、いつも愛と慈悲の心で、すべての人々に恵みをくださる偉大な神仏のような方だ」、などというような話ばかりを聞かされるようになってしまうと、途端に、こうした「普通の人間の延長線のような存在の聖者」という見方から、何だか、よく分からないが、「普通の人間とは、全く異なる、偉大な神仏のような存在の聖者」というような見方に、180度、大転換してしまうようになることが、非常に多い、ということなのです。

 ところが、この後が、非常に問題で、そうすると、多くの人々は、「それなら、あの聖者は、自分達のすべての罪や穢(けが)れ(霊的な汚れのこと)を引き受けて下さるような偉大な神通力を持っているに違いない」、とか、「あの聖者に願った願い事は、何でも叶うらしい」、などという具合に、もし、その当の人物が、目の前にいれば、まずは、絶対に引き受けてくれるはずもないような、とんでもない願い事を、次々と、その聖者めがけて、願うようになったり、あるいは、霊的に見ると、ほとんど犯罪まがいの行為なのではないか、と思われるような、かなり無理、というよりも、かなり不当な自分自身の罪の押し付けや穢れの浄化のようなことを、そうした聖者自身の直接の了解を、一切、得ることなく、勝手に行い続けるようなことをする人々が、次から次へと出てくるようになってゆきがちであった、ということなのです。

 地球の宗教においては、こうした自分自身の願い事を頼んだり、あるいは、自分自身の罪や穢れの軽減を、神仏に頼む、というのは、別段、大して珍しくもないような、よくある宗教的な行為とされているのですが、これは、よくよく冷静に考え直してみないと、なかなか分かりづらいかもしれないのですが、もし、そこに、実際に、そうした偉大な聖者のような人間がいるとしたら、「そんな一方的な願い事をして、本当に何でも叶うと思うのか」、とか、「そんな自分自身の罪や穢れを、一方的に押し付けるような理不尽な要求をして、そう簡単に聞き届けてもらえると思うのか」、などというように、はっきり言って、申し訳ないのですが、こんな願い事や要求をするような人間というのは、普通の社会では、どうしようもない馬鹿者とか、最低の無法者や卑怯者のような扱いをされるのが、せいぜい、関の山なのではないか、ということなのです。

 つまり、もし、誰かに願い事を頼むのであれば、普通、その相手は、その願い事を実現できる能力を持っているのか、とか、それ以前に、そもそも、その相手は、自分の願い事を叶えてもいいと思っているのか、ということが、非常に重要になってくるのですが、ところが、普通の人間社会であれば、こうしたことは、みんな、かなり真剣に考えるにも関わらず、「宗教」と名がつくだけで、なぜか多くの人々は、「この神仏は、何でも願い事を叶えてくださる」、とか、「この神仏には、何でも願い事を頼んでいい」、などと、あまり深く考えることなく、勝手に信じ込んで、判断するような人達が、本当に後を絶たないようなところがある、ということなのです。

 それから、もし、誰かに自分の罪や穢れを引き受けてもらおう、などというような場合には、当然、もっともっと真剣な相手との直接交渉が必要になるのが、普通、社会の常識なのではないか、と私は思うのですが、ところが、これも、地球の宗教であると、なぜか、多くの人々は、何の疑問も持たずに、「この神仏は、何でも私達の罪を引き受けてくださる」、とか、「この神仏は、何でも私達の罪を許してくださる」、とか、「何でも私達の穢れを清めてくださる」、などというように、普通の社会であれば、まずは、面と向かって、相手にお願いしたり、要求したりできるはずもないようなことを、「宗教」の名がつくと、わりと、どの人も平気で、ずうずうしく、やってのけるようなところがある、ということなのです。

 こうした観点から見る限り、正直言って、私は、現在の地球の主だった宗教というのは、もし、そこに本当の神仏のような存在がいたら、まずは絶対にやってくれないようなことばかりを要求するような、言ってみれば、「何でも願望実現マシン」や「何でも清浄化マシン」のような存在(本当は、神仏というよりも、単なる機械みたいな存在)を、理想の神仏のように崇め立てているような、一種の幻想に過ぎないのではないか、というように率直に感じているのですが、それもこれも、元をたどると、今述べているように、多くの宗教では、神仏のような光の存在のイメージを、かなり脚色して、一種の単なる偶像に貶めてしまったことが、そのそもそもの原因なのではないか、というように、私は、率直に感じております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月16日 9:33 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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